2017年12月29日金曜日

世界の美女で2017年を締めくくり

The 100 Most Beautiful Faces of 2017 - YouTube:

 今回は、映画評論サイトのTC Candlerが毎年年末に発表する「世界で最も美しい顔トップ100」の2017年版が発表されたという話題です。日本からも、丹羽仁希さん・小松菜奈さん・石原さとみさん・湊崎紗夏さんの4人が選出されています。今日から年末年始の休みに入る人も多いと思いますが、そんな美女を眺めて2017年を振り返ってみるのも乙なものかと(↓)。


 ちなみに映えある1位はというと、フィリピンとアメリカで女優・モデル・歌手として活躍するリザ・ソベラーノさん。1998年カリフォルニア州サンタクララ生まれの19歳。2015年は6位、2016年は2位と着実に順位を上げて、今年ついに1位の栄冠です。美しい女性ばかり眺めて気分一新、また年賀状書きに勤しむこととしましょうか。

2017年12月28日木曜日

選べることは幸せなこと

ショッピングモールに人が集まる理由(わけ)とは? | METHOD Network 【メソード ネットワーク】:

 今回はブログサークルで切磋琢磨させて頂いているトニーマサキ氏によるメソードネットワークというブログの記事を元に、「選択の自由」と「幸福」そして「努力」との関係について考えてみようと思います。

 元記事では、トニーマサキ氏がショッピングモールに行った時ふと感じた幸福感について掘り下げておられます。実は、自分はある地方都市に住んでいて近くに大型ショッピングモールがあるのでよく子供を連れて訪れるのですが、その時子供を遊ばせたり買い物をしたりして家族と過ごす休日の幸せを感じたことはありましたが、トニーマサキ氏の言われる幸福感はそういう幸せとは少し趣旨が違うのです。ここで言われている幸福感の源は、ズバリ「選択の自由」です。

 ショッピングモールには、衣服店・雑貨屋・食品店・娯楽施設・モバイルショップなどさまざまな店舗が軒を連ね、訪問した客としては何を選ぶのも自由。そしてむしろこちらの方が重要かもしれませんが、何も選ばないのも自由。こういう多くの選択肢から「自分で」選ぶことができるというのが、最も幸福な要素の一つではないかと言われているのです。ナルホド。日常の喧騒のなかで頭の奥底に眠っていた考え方ではありますが、改めて言われるとその通りだと思いませんか。

 例えば、下世話なところで「お金」や「学歴」。もちろんこれらがあるから直ちに「幸福」とイコールというわけではありませんが、人によっては「幸福」を形成する重要なパーツです。現実的には、最低限の食生活が保証されるお金を持っているだけでは心の豊かさは満たされません。多少の余裕があったとしても、デパートで高い服は無理だからスーパーでセール品しか買えないとか、私立の学校に行きたいが経済的理由で公立校にしか進めない、あるいは学校を中退して働かざるを得ないという選択肢のなさ。一方で、経済的に余裕があって、高い服もスーパーのセール品もどちらも選べる状態だけど服の好みからあえてセール品を選ぶ、私立も公立も選べる中から自分の将来の夢のためにあえて公立校を選ぶ、そのまま学校に通ってもいいけど夢の実現の道を早く進むためあえて中退するという選択。やむなく選んだセール品・公立学校・中退と、多くの選択肢があるなかで自分で選び取ったセール品・公立学校・中退とは、天と地ほどの差があるわけです。学歴についても、大手企業も中小企業も選べるなかで、あえて自分の実力を発揮するためにベンチャー企業に就職するのと、学歴がないなどの理由で止むを得ず中小企業に就職するのとは全く違います。そして、選択肢が多いなかで自分で選ぶことができるということこそ、幸福の大きな側面です。

 思えば私たちが努力を重ねる時、大きく二つの努力のスタンスがあることに気づきます。一つはゴールに向かった一直線の努力です。確固たる目指すべきゴールが見えていて、そこに向かって一直線。例えば、プロ野球選手になりたいという夢を実現するため日々練習に明け暮れる球児や、オリンピックで金メダルを目指すスポーツ選手。スポーツの世界に多い努力のスタンスですが、ミュージシャンになりたいとかお笑い芸人になりたいなんて夢に向かって頑張る人たちもやはり同じです。

 そしてもう一つの努力のスタンスが、将来の選択肢を広げるための努力。例えば、受験勉強などがこれに当たります。将来いい大学に入って学歴を得ること、その学歴で就職の選択肢を広げたり、お金に不自由ない状態を勝ち取って、その後の人生の選択肢を広げたい。人がこの2番目の努力をすることができるのは、トニーマサキ氏の言われる「選択の自由」が「幸福」と大きく繋がっているからではないかと思うのです。だって、今の勉強の苦労が将来の幸せに繋がっていなければ、受験勉強なんかできないと思いませんか。我々が「努力」を考える時、なんとなく1番目の努力がピュアで応援したくなるスタンスに見えますが、自分はこの2番目の努力だって十分に誇っていい努力だと思います。

 今回、トニーマサキ氏の記事を読ませていただいて、子供の頃に見たある映画を思い出しました。それは「僕らの七日間戦争」という宮沢りえさん主演の映画です。中学生が廃工場に立てこもって大人と対立するというたわいもない映画ではありますが、TMネットワークの「Seven Days War」という歌が使われていて、こんな歌詞があります。

全てを壊すのではなく 何かを捜したいだけ
全てに背くのではなく 自分で選びたいだけ
Seven Days War たたかうよ
僕たちの場所 この手につかむまで

動画の方はこちら(↓)。思春期まっただ中、親や教師に反抗して廃工場に立てこもった中学生たちのたたかう理由は「自分で選びたい」ことなのです。親や教師が敷いたレール(もちろんその子の将来のことを思って)の上を走ることは、将来的な選択肢の広がりに繋がるかもしれませんが、幼い彼らにはそこまでの遠景が見えません。目の前の選択肢のなさに窮屈さを感じ、自分で選びたいんだと反抗するのです。


 選択肢の多さ。自分で選べること。自分で選んだ道を歩むことができること。普段はなかなか気づきませんが、これはとても大きな幸せです。以前に幸せを噛みしめることで幸福を感じやすい脳を作ることができるという記事を書いたことがありますが、いまあなたが置かれている状況が数多くの選択肢の中からあなた自身が選んだ道なのだとしたら、そのことを思い出して幸せを噛みしめるいい機会ではないかと思います。

2017年12月27日水曜日

人間関係の悩みは「メタ認知」でストレス軽減を

「メタ認知」の力を高めれば、ストレスに強くなる! [ストレス] All About:

 誰もが持っている感覚だと思うのですが、自分の気持ちや考えなど心の動きを、まるで他人の心を分析しているかのように客観的に見ている視点。「メタ認知」というのだそうです。「メタ」という言葉は1つレベルの高い世界のことを指し、プログラマーにとっては比較的よく聞く言葉です。例えば、言語を記述するための言語をメタ言語と言い、XML(eXtensible Markup Language)スキーマはある記述を行なうためのルールを記述することができるという意味でメタ言語の例と言われています。

 今回考えてみたいのはそういったテクノロジーの話ではなく、もっとサイコロジーの話である「メタ認知」です。「メタ」の同じルールに則れば「認知を認知すること」とでも言えましょうか。元記事は産業カウンセラーでストレスガイドの大美賀直子氏によるもので、「メタ認知」の能力を鍛えることでストレスに強くなるというのが主旨です。

 しかし「メタ」という言葉に慣れていないと、「メタ認知」とか「認知を認知する」と言われても頭がこんがらがるだけですよね。大美賀氏の記事を読ませて頂いた上で、自分が思ったメタ認知というのは、最初に述べたように自分の心の動きを客観的に捉えることです。例えば人に嫌なことを言われた時に、自分の姿や心を外部から観察しているかのように「自分は嫌なことを言われてカチンときている」という分析を行なうことです。

 大美賀氏によれば、、普段、何気なくストレスを回避し、健康を維持しながら生きていられるのは、メタ認知が働いているおかげなのだそうです。最もメタ認知ができないのは幼い子供で、例えば気温が低すぎても「自分は寒いと感じている」というメタ認知が働かないので、「なんか嫌!」と泣き叫ぶなんていう反応になるそうです。大人であってもメタ認知の能力が低い人は、悪意がなくてもつい余計な一言で周囲の怒りを買ってしまうケースがあります。嫌だなあと思ってもそれを心の中にとどめておけない人も、やはりメタ認知能力が低いかもしれません。つまりメタ認知の能力が低いと、大人の世界ではトラブルの種になりやすく、「悪い奴じゃないんだけど」という評価をされたり、他人からの悪気がないキツい一言にまともに傷ついてしまったりするのです。

 では、メタ認知能力を鍛えるにはどうすれば良いのでしょうか。トレーニングのポイントは2つあります。1つ目は「モニタリング」、そして2つ目は「コントロール」です。

 まずモニタリングの方ですが、これは感情から行動に直結するのではなく、一呼吸置いて自分の感情を見つめ直してみましょうというものです。例えばある人に苛立ちを感じたとき、感情に任せて怒りを爆発させるのではなく、「自分は一体この人の何に対して苛立っているのだろうか」と考えるのです。以前紹介したアンガーマネジメントに近いかもしれませんが、アンガーマネジメントはとにかく怒りが爆発しそうになっても6秒間待てばその感情がすっと静まっていくというものですが、大美賀氏の言われる「モニタリング」は自分の怒りという感情を客観的に見て分析しようという1段高いレベルが要求されます。これらは相反するものではなく、両方を行なうことで互いに相乗効果をもたらすでしょう。怒りが爆発しそうになったら、とにかく深呼吸して6秒間待つ。その間に、自分はこの人のどこにムカついているのだろうかと分析するのです。

 次のコントロールは、モニタリングした結果にもとづいて、対処行動の目標や計画を設定することです。例えば、自分はこの人の声や話し方にイラっとしているんだとモニタリングしたとしましょう。それならば、声や話し方ではなく話している内容に注目するようにするのです。その人の姿かたちに目を向けるというのもいいかもしれませんし、周囲をイヤな気分にさせるような人とうまく応対できている自分の方に目を向けてみるのもいいでしょう。モニタリングもそれに対するコントロールも臨機応変ですし、人によって異なるでしょう。

 生活や仕事の中で「メタ認知」を意識すると、目の前に生じる不快な出来事にいちいち振り回されず、認知の力で自分の行動を制御することができるようになります。それは、ある種の「セルフコントロール」かもしれません。セルフコントロールができれば、特に複雑化した現代の人間関係のなかで、傷ついたりストレスを溜めたりすることも減らすことができるかもしれませんよね。

2017年12月25日月曜日

「適度な運動」の「適度」ってどのくらい?

The Right Dose of Exercise for a Longer Life - NYTimes.com:

 テレビを見たりネットを見たりすれば、ヘルシーな食べ物情報の次くらいに健康のために適度な運動が必要という情報に出会う気がします。全然運動しないことが健康にマイナスなのは直感的に分かるのですが、一方で運動のしすぎは寿命を縮めるという話を聞いたりもします。激しい運動や普通の人の何倍もの運動をするトップアスリートは、逆に怪我をしたり体を壊したりして、「健康」という意味では逆効果になります。そこで健康には「適度な」運動がいいんだということになるのですが、一体「適度」ってどのくらいなのでしょうか。Gretchen Reynolds氏の元記事は、そのあたりのサジ加減について書かれています。

 実は、健康を保つためには週150分の運動が必要と言われています。今回、アメリカ国立がん研究所とハーバード大学の研究チームの研究で答えが導き出されたとのこと。具体的には、中年を中心とする66万1000人を1週間あたりの運動時間で階層化し、まったく運動を行わない人から、現在推奨されている運動量の10倍以上つまり1週間に25時間以上も運動をする人にグループ分けし、その健康データを過去14年分の死亡記録と比較したのです。

 予想通りではありますが、最も早世のリスクが高かったのは「全く運動しない」というグループです。しかし、意外なことに150分には満たないものの多少は運動をしていたグループでも、全く運動をしないグループに比べれば早生リスクは20%も少なかったのです。そして推奨量ちょうどの150分という運動をしていたグループは、全く運動しないグループに比べ死亡リスクは31%も低く、健康な体で比較的長生きできたそうです。

 じゃあ運動しすぎというグループの方はどうでしょうか。推奨量の3倍ものウォーキングを行なっていたグループの死亡リスクは、全く運動しなかったグループより39%低かったのです。むしろ推奨量ちょうどの運動量よりも、推奨の3倍もの運動を行なっていたグループの方が死亡リスクという意味では低い数字が出たのです。そして、それ以上はまた死亡リスクは緩やかに上がって基準量の運動と同じくらいの数字に落ち着くのだとか。つまり面白いことに、「運動のしすぎはかえって身体に悪い」というのは科学的に証明されなかったのです。

 また、オーストラリアにおけるGebel K,・Ding D・Chey T・ Stamatakis E・Brown WJ,・Bauman AEの6氏の共同研究として出された発表によれば、週に150分運動を行なうのであれば、それがウォーキングのような軽い運動でも十分効果がありますが、さらにそのうち30%を激しい運動に変えると死亡率がさらに9%、30%以上を激しい運動に費やすと死亡率が13%下がるのだそうです。なんとここでも、科学的には激しい運動が死亡リスクを上げるという結果は出なかったのです。

 つまり、週あたり150分以上の運動をすること、それはウォーキング程度の軽いもので十分なのですが、そのうち20〜30分くらい激しい運動をするというのが、最も「適度な運動」ということになります。翻って自分のことを考えてみると、週末に長男と一緒にドッチボールやサッカーをするのが激しめの運動だとしても、毎週150分のウォーキングというのはそれなりに意識しないと歩けない気がします。自分も「適度な」運動を心がけた方が良さそうです...

2017年12月24日日曜日

人生の4つのステージを見事に表した写真

男の人生における4つのステージを見事に表した写真 - GIGAZINE:

 今回は軽い話題ですが、ちょっと皮肉の効いた1枚の写真を紹介したいと思います。それがこちら(↓)。人生の4つのステージを飲み物のボトルだけで表していて、なかなか秀逸だと思いませんか。


 左から順番に、ミルク、ソーダ、ビール、点滴と並んでいて、飲むものが変化していくことが表されています。これを見ると、40代になった自分はもう第3ステージまで来ているんだなと感慨を感じてしまいます。

2017年12月23日土曜日

ARを使った「食べたつもりダイエット」はいかが?

ARで「食べたつもり」 味覚操作しダイエット: 日本経済新聞:

 その昔「つもり貯金」という言葉がありました。買ったつもり、食べたつもり、やったつもりと自分に言い聞かせて少し我慢することで、その分のお金を貯金していこうということです。今回は「つもり」は「つもり」でも、「食べたつもり」ダイエットの最先端がすごいことになっているというので、ここでご紹介したいと思います。これまでも、焼肉やトンカツを食べたつもりでダイエット食を食べるなんていうダイエットもあったでしょうが、味気ないダイエット食と美味しい焼肉やトンカツのギャップが大きすぎて、「食べたつもり」になれずストレスが溜まる一方でした。

 元記事は日経新聞の記事ですが、東京大学先端科学技術研究センターの廣瀬通孝教授のインタビューが骨子をなしています。廣瀬氏の専門は、VR(仮想現実)とかAR(拡張現実)という最先端のテクノロジーですが、それがダイエットとどんな関係があるのかと思ったら、「食べたつもり」の「つもり」をより一層それらしくすることにこういった先端技術が寄与しているのだそうです。

 元記事の記者さんが廣瀬氏の研究室で体験したのは、実際にはプレーンのなんでもないクッキーを食べたにも関わらず、チョコレートたっぷり(その分カロリーたっぷり)のクッキーを食べた「つもり」になれるというものでした。ヘッドマウントディスプレイ(HMD)を装着してプレーンクッキーを見ると、あら不思議、AR技術によってチョコレートがたっぷりとかかっています。実際にクッキーを食べてみると、チューブからチョコの甘い匂いが漂ってくるのです。本当はプレーンクッキーなのに、まるでチョコたっぷりのクッキーを食べている「つもり」になれるのです。廣瀬氏によれば、この装置は「視覚と嗅覚によって味覚を変える装置」だと言います。

 この装置で高カロリーの食べ物を食べたつもりになって、実際のところは低カロリーのものを食べることができればダイエットがツラくなくなる、と聞けば画期的だという気がしますが、ちょっとだけ立ち止まってみたいと思います。今回記者さんが体験したのは、視覚と嗅覚で味覚をダマすというデモンストレーションです。廣瀬氏の専門はVRとかARですので、このデモの中の「視覚」部分です。そして、ある意味もう一つの「嗅覚」部分は最先端のVRやARに比べると、従来からの技術で実現できそうです。例えば、最近の映画館で体験できる4Dと呼ばれる技術は、映画の絵に合わせて振動や風だけでなく匂いも出して臨場感を高めてくれます。そして、私たちが味を感じるのは、味覚よりも嗅覚だという話をよく聞きます。鼻をつまんで食べると途端に味がわからなくなってしまうというのは、有名な話ですよね。だから、「食べたつもり」のリアリティが上がったのは、VRやARといった最新技術よりもチューブから出るチョコレートの香りの影響が強かったんじゃないかという勘ぐりをしたくなりませんか。

 そう思ってネット上の情報を探してみると、味覚より嗅覚の方が味に与える影響は大きいのですが、実際は視覚の方がさらにもっと大きいという情報が見つかります。食事の際の五感による知覚の割合は、なんと視覚が83%、聴覚が11%と大きな割合を占めているのに対して、嗅覚は3.5%で味覚はなんと1.0%と言うのです。しかし、この情報はちょっと種子が違います。この割合は、人間が日常的に情報量として脳がインプットしている割合として、産業教育機器システム便覧で紹介されている数字で、ここにそのものズバリは引用できませんがこちらで引用されていたりします。しかし、この割合は変化すると言われており、直感的にも食事中は嗅覚や味覚が活性化されて割合が高まっていると予想されます。じゃあ食事中はどんな割合になっているのかと言う研究を探してみましたが、あまり引用しやすいものがなかったので、京都光華女子大学で研究されていた結果を参考に見てみますと、視覚や嗅覚を遮断して飲み物を飲んだ時に、どれくらいその飲み物を当てられるかという実験結果があります(↓)。
これを見ると、どうやら視覚と嗅覚は同じくらい味に影響を与えているようです。そして、目隠しして鼻をつまんで飲み物を飲むと、だいたい半分くらいは当てられなくなってしまうという程の影響があるということです。

 ここまで考えると、廣瀬氏の「視覚と嗅覚によって味覚を変える装置」というのはなかなか的を射ていることがわかります。最新テクノロジーを使って視覚と嗅覚を騙すことで、いかにも高カロリーなものを食べている「つもり」で、実際には低カロリーなものを食べることで、ダイエットのストレスから解放される日はすぐそこかもしれませんね。

2017年12月22日金曜日

怒った相手への「謝罪」はスピード勝負

共同発表:「謝罪」の効果を複数の指標で分析し、その有効性を解明―「怒り」の衝動は消せるが、不快感は抑えられない―:

 今回はちょっと古い記事を元にした内容なのですが、面白そうだったのでここに紹介します。主題は「怒り」です。皆さんは相手の怒りを買ってしまった時はどうしますか。自分が悪かった場合はごめんなさいと「謝罪」するでしょうが、たとえ自分が悪くないと思ってもとりあえず相手の怒りを抑えるために「謝罪」する人もいるかも知れません。そんな「謝罪」が有効なのは「怒り」が持つ「攻撃性」の側面だけで、「不快感」の側面に対しては有効ではないということなのです。元記事は、東京大学大学院総合文化研究科の岡ノ谷一夫教授と、JST戦略的創造研究推進事業ERATO型研究「岡ノ谷情動情報プロジェクト」の久保賢太研究員、そして名古屋大学大学院情報科学研究科の川合 伸幸准教授との共同研究として発表された記事です。

 人間の基本的な感情は「悲しみ」「幸福」「怒り」「軽蔑」「嫌悪」「恐怖」「驚き」という7つだと言われていますが、ここのところ俄かに「怒り」という感情が注目を浴びている気がします。「アンガーマネジメント」なんていって、怒り心頭に達したとしても最初の6秒間をなんとかやり過ごすことができればあとは怒りが静まってくるという話をこの山ちゃんウェブログでも書きました。アンガーマネジメントがどちらかというと自分の怒りをコントロールするという趣旨なのに対して、今回の元記事は相手側の怒りをしずめるという方面の文脈です。

 相手の「怒り」に対して「謝罪」が有効なのは何を今さらと思うでしょうが、実はこれまでは「謝罪」が「怒り」の何を抑制するのかは明らかではありませんでした。元記事で言われている研究では、怒りを「脳波」と「心拍」「皮膚電気反応(汗)」で計測し、「謝罪」は攻撃や強い衝動(攻撃性)を抑制することはできるが、不快感は抑制されないことが分かったのです。

 怒りに伴う脳の不均衡を示したこのグラフ(↓)によれば、謝罪を受けた方が受けないよりも、怒りの接近動機の生起を表す左右脳活動の不均衡状態が低下しています。
しかし次の図(↓)では、謝罪の効果は心拍反応では認められたものの、汗の反応では認められませんでした。

 我々は一括りに「怒り」といってしまいますが、実は怒りは「攻撃性」や「不快感」などの成分に分けることができるのです。そして従来は「心拍」と「皮膚電気反応(汗)」はどちらも怒り全般の指標だと考えられてきましたが、上の図でも明らかなように両者が異なる挙動を示すことから、実は異なる指標(つまり「心拍」は瞬発的な「攻撃性」の、「皮膚電気反応(汗)」は継続的な「不快感」の指標)だったんだということがわかりました。そして、「快・不快尺度(PANAS)」と「状態攻撃性尺度(STAXI)」についても、謝罪の効果は攻撃状態を反映する心理尺度にのみ認められ、不快な気分状態を反映する心理尺度には認められなかったのです(↓)。

 先のアンガーマネジメントに話を戻すと、アンガーマネジメントによって6秒間の怒りのピークをやり過ごせば、その場はなんとか収まるものの、不快感がストレスとなって後々まで残ってしまうというところでしょうか。そういう意味では、「謝罪」というのは相手に他するアンガーマネジメントと言えるのかもしれませんね。とにかく相手を怒らせてしまった場合は、すぐに謝罪して瞬発的な「攻撃性」を避ける必要があります。じゃあ、相手に残してしまった継続的な不快感はどうすれば解消できるのか、その辺が次の課題かもしれませんね。

2017年12月19日火曜日

BMIで実現されるテレパシーの光と影

脳が世界を動かす 会話や移動念じるだけで: 日本経済新聞:

 以前にもフェイスブックが脳で操作するコンピュータを開発中だとか、あのイーロン・マスク氏が立ち上げたスタートアップNeuralinkで電極を脳に埋め込んで直接コンピュータを操作する研究に乗り出したなんて話題を紹介しましたが、今回は由緒ある日経新聞に掲載された記事を元に、ふたたび脳で直接コンピュータを操る技術を考えてみましょう。

 脳で考えただけでコンピュータに命令を下すなんてとてもSFチックなことに思えますが、BMI(ブレイン・マシン・インタフェース)と言って、実はいま水面下で開発合戦が繰り広げられているようです。人間がコンピュータから情報をもらったりコンピュータに命令を下したりするインタフェースは、ごく最近までディスプレイとキーボードでしたし、その後スマホやタブレットなどのタッチパネルが主流になりましたが、最近ではAmazon EchoやGoogle Homeのような「声」で操作するスマートスピーカーというインタフェースも注目を集めています。そして、「声」の次は「脳」だと言うのです。ついに人間のモノグサここに極まれり、声を出すのさえ面倒くさくなってしまったのかと思いきや、そう言うことだけでなく、障害などで身体や会話が不自由な人々にとって福音になるかも知れません。つまり、これまで人とのコミュニケーションが不自由だった人も、脳からコンピュータに直接アウトプットすることができれば、コンピュータによって人とのコミュニケーションを円滑に行えるようになるのです。いわゆる「テレパシー」をテクノロジーで実現できることになるということですよね。

 元記事では、BMIの最前線について日本の2つの例を示してくれています。1つ目は、茨城県つくば市の産業技術総合研究所で、長谷川良平・ニューロテクノロジー研究グループ長らが開発した「ニューロコミュニケーター」という装置(↓)です。例えば、全身の筋力が弱まるALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病の患者役の女性が、画面上の「飲食する」「移動する」「気持ち」「体のケア」など8つの選択肢を見て「飲食する」を念じると、画面には次の選択肢として「カレー」「フライドチキン」「ハンバーガー」などが表示されます。これを繰り返すことで、大まかな意思表示から詳細の意思表示を行うことができるというわけです。仕組みとしては、患者役の女性は頭に小型の脳波計をつけていて、選ぼうという強く念じた時に出る特徴的な脳波を検出するようになっているのです。


 もう一つ紹介されているのは、大阪大学国際医工情報センターの平田雅之教授らの研究で、脳に直接電極を当てるタイプのBMI技術です。平田教授は、ALSの患者による予備試験を2013年に実施し、患者の脳の表面に電極を置いて体外とケーブルでつなぎ、ロボットアームやパソコンを操作することに成功しています。現在は、脳波データを無線で体外に伝える完全埋め込み型装置の実現を目指しているのだそうです。どちらかというと、Neuralinkの方式に近いですね。健康な人にとって脳に電極を埋め込むと言われるとちょっと抵抗感がありますが、ALSの患者さんのように病抜いよる不便さをテクノロジーで解消できる場合はウェルカムかも知れません。

 ただ、BMIは手放しで喜べない側面もあります。それはプライバシーの問題。すでにGoogleやAmazonなどの最先端テック企業はユーザーの趣向や思考のデータを集めるのに必死です。検索エンジンでどんな言葉を調べたか、どんな内容のメールを送受信したか、ネットショップでどんなものを買ったのか、スマートスピーカーでどんな言葉を喋ったか...ユーザーのプラバシー情報をこれでもかというくらい収集して、そのビッグデータを武器に人工知能(AI)で解析してビジネスに活かすというビジネスモデルを築いています。ここに最強と言ってもいいプラバシーデータ収集法が加わることになるわけです。そう、BMIは「どんなことを考えたか」ということすらテック企業に収集される危険性が高いわけです。

 正直言って、自分は先端テクノロジーや新しいガジェットなど大好きなのですが、いまだにスマートスピーカーは購入に至っていません。だって、家という最もプライバシーの確保されていて欲しい空間で、自分や家族たちが何を喋るか、GoogleやAmazonに常に耳をすまされていると思うと、なんだか気が休まらないように思うからです。これまで多くのインターネットユーザーは、自らのプライバシーを提供する代わりにGoogleやAmazonなどの便利なサービスを享受してきました。ただそれも、今プライバシーを提供しているなという実感があったものですが、「音声」や「思考」というのは意識して自分から働きかけない行為なので、無意識にプライバシーを提供するというのはまだ抵抗を感じてしまいます。

 とはいえ、病気や怪我によって失われてしまった能力をテクノロジーで補うために、これまで眼鏡や義足・心臓ペースメーカーなど多くの機械が発明されてきましたが、BMIは異次元の発明と言えるのではないでしょうか。大きなメリットは、同時に大きなリスクもはらんでいるということかも知れません。

2017年12月16日土曜日

ビールポスターで懐かしむ古き良きヤマトナデシコ

Vintage Japanese Beer Adverts: Hand-Painted Maidens - Flashbak:

 今回は昭和初期の頃のビールのポスターを紹介したいと思います(↓)。最近ですと、ビールのポスターといえばアイドルか女優の卵の若い女性が水着で爽やかな笑顔を振りまくポスターが多いですが、この頃のポスターは手描きで、それでも面白いのは今と同じくやっぱり女性が一人で描かれているところです。サッポロビールだけ少しお色気路線ですが、キリンビール・アサヒビール・カブトビールは着物でおしとやかな古き良き昭和女性を表しているようですね。

 元記事のPaul Sorene氏は、これらのポスターに女性が描かれるのは、彼女たちがビールを飲むのも注ぐのも好きだからと書かれていますが、日本人的な感覚からすれば、この時代の女性がビールを好んで飲んだとは考えづらく、どちらかといえばビールのポスターは今も昔も男性目線(というか男性をターゲット)で作られているということのような気がします。








AIやロボットに取って代わられる仕事とは

代替可能確率と人口割合から考えるAIと働き方の未来予想図 | アデコ株式会社:

 今回は久々の人工知能(AI)ネタですが、人材派遣や転職エージェントをしているアデコ(株)さんの記事を元に将来的にAIやロボットに取って代わられるだろうという仕事について。元記事は、野村総合研究所 主任コンサルタントの岸浩稔氏によるものです。

 日本はこれから労働人口が減ってくることがわかっているわけですから、コンピューターやAIにどんどん仕事を任せていかないと立ちいかなくなってしまいます。そういう意味では、人間の仕事をAIが肩代わりしてくれるというのはありがたいことですが、じゃあ明日からあなたの仕事はAIにやってもらうからあなたはクビと言われてしまっては心中穏やかでないわけで、まさに「合成の誤謬の逆問題」と言えるかもしれません。

 2016年の野村総合研究所と英オックスフォード大学の共同研究のなかで、日本国内601種類の職業を対象として、職種ごとにAI・ロボットに代替可能な確率を示したのがこの図(↓)です。横軸はその職種に就いている人の数、そして縦軸がAIやロボットに代替される可能性です。


 実は全体的に見たとき、日本はAIやロボットで代替可能な労働人口の割合が世界的にも高いのですが、それは日本では事務職の就労者が多いことが理由です。上の図で見てもわかるように、事務職のAIでの代替可能性は100%なのですから、これが全体的な数字を押し上げているというわけです。一方で面白いのは、専門職です。複雑だったり面倒だったりしても、定型的な業務が多い税理士や公認会計士などの職種はAIに取って代わられる可能性が極めて高く、一方で医師や看護師など臨機応変な対応が必要な職種はまだまだAIやロボットに取って代わられる可能性は低いようです。つまり、専門職は大きく二極化するだろうという予測です。そして、対人間系の仕事である営業や販売などの仕事も、AIに取って代わられる可能性は低そうです。

 言われてみれば当たり前ですが、事務職や専門職でも定型的なバックオフィス業務はどんどんAIに取って代わられます。一方で、非定型で臨機応変な対応が求められる職種や対人間系の職種など、やはり人間にしかできない仕事が残っていくというわけです。

 残念ながら、この図の中に自分のようなソフトウェア開発者というカテゴリーがないので、自分自身がAIに取って代わられる可能性はこの図からは分かりません。自分的には、要件定義や基本設計のようなコンサルっぽい上流工程は人間に残され、コーディングやテストなど比較的単純な仕事はAIやコンピューターにシフトしていくのではないかと予想しているところです。いずれはAI自身がAIを作り出していく世界も訪れるのでしょうが、希望的観測も含めてそれは当分先ではないかと。あなたの職業もAIやロボットに取って代わられる可能性が高いとされているからといって、すぐに露頭に迷うわけではありません。この図(↑)は技術的に代替可能だと言っているだけで、経済性や社会的な側面など考慮されていないわけですから。

 しかし、技術の発展はある水準までは社会の中で蓄積され続け、あるしきい値を超えた瞬間に一気に社会を変えてしまうというケースがあります。近年ではインターネットやスマホなども、それまで蓄積された技術がある時一気に花開いたケースでしょう。人間の仕事を代替するAIやロボットの技術はすでにかなりの技術が蓄積されていますから、一気に花開くまでの時間は思ったほど長くないかもしれません。そうなった場合の社会へのインパクトはとても大きいので、企業は今のうちから徐々に人材シフトを進める等の対応が必要ということなのでしょう。

2017年12月15日金曜日

小中学校の友人はクソなのか

"小中学校の友人"なんてクソみたいなもの | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online:

 少し前のことですが、予備校講師で人気タレントでもある林修氏が、TBS系の「林先生が驚く初耳学!」(2017年11月19日放送)で「小中学校の友人なんてクソみたいなもの」と発言して物議を醸しました。もちろんこの発言は、過激な言葉で視聴者の注目を集め実際のところは深い思いがあってのことですが、時間的な前後関係を考えると、今回の元記事にさせて頂いた中川淳一郎氏の記事がその発言のベースにあるようです。

 確かに自分も今思い返せば、小・中学生の頃の悩みのタネは勉強やスポーツができないことではなく、大抵は人間関係、それも同級生などとの友人関係でした。いや、下手したら高校生や大学生になってからも、それに先輩・後輩など縦の関係性が増えただけで、結局のところ悩みのほとんどは人間関係にあった気がします。中川氏や林氏が主張される「小中学校の友人なんてクソ」という言葉の真意は、今その悩みの真っ只中にいる小・中学生に対して、小中学校での交友関係は長い人生を考えれば大して重要ではない、いじめてくる相手を後生大事にする必要もないし学校から逃げてもいい、というメッセージです。

 自分も小・中学生の頃、世界は家庭と学校それにクラブ活動や習い事くらいと狭く、その狭い世界の中で自分の居場所や地位を確保することに躍起になっていました。世界が狭いがゆえに、その中でツマはじきにでもされようものなら、たとえ媚を売ってでも友人関係を保とうとしていたと思います。村八分という言葉ありますが、狭い世界で生きている場合はこれが最も恐れるべき制裁かもしれません。それは、集団行動主義の日本社会における、代表的ないじめの代名詞でもあります(イマドキ言わないのかもしれませんが、「シカト」なんて言葉がありましたよね)。中川氏や林氏が言われるのは、何も後生大事にその村に止まっている必要はない、外にはもっと大きな世界が広がっているんだ、ということなんだと思います。

 もちろん、友人関係がうまく行っている人にわざわざそれを壊せと言っているわけではありません。いま良好な友人関係が築けているのであれば、その友人は「宝」そのものです。しかし、いま友人関係がうまく行っていない人は、その悩みのタネの友人たちは大人になったら1年に1回も会わなくなる「クソ」みたいなものなのです。悩んでいる小・中学生には、「世界は広い」ということを気づかせてあげたいものですね。

2017年12月14日木曜日

大企業への就職と出世を諦めてはいけないワケ

生涯賃金、年金…課長とヒラの出世格差の現実:日経ビジネスオンライン:

 すでにボーナスが出た会社も多いこの時期、考えてみようと思うのは出世格差の現実。もちろん自分も普通の電機メーカーに勤めるサラリーマンですから、収入面で管理職とヒラの格差があるのは理解していますが、現実論としてそれはどれ程なのかということには目を背けてきた面もありました。元記事は日経ビジネス アソシエ編集部によるもので、人事コンサルタントでセレクションアンドバリエーション社長の平康慶浩氏へのインタビューとして書かれています。

 日本生産性本部 日本経済青年協議会による数字では、2017年入社の新入社員で、課長以上の管理職を目指すとい人の割合は48%で、これは実は現在の30代、40代が新入社員だった頃と大きく変わりません(↓)。じゃあその48%の人がどのくらいまで出世したいかというと、自分と同世代の40代くらいの人が新入社員だった頃は社長を目指すと意気込む人が20%ほどいたにも関わらず、今年の新入社員では約12%。サラリーマン生活で目指すゴールを、比較的手の届きやすいところに置く人が増えているようです。一方でやはり半数くらいの人は、そもそも出世を目指さないと答えているのですが、出世したい人もしたくない思わない人も、現実的な数字を知らずにキャリアプランを決めてしまっているのではないかと思うのです。自分も、シャカリキに出世したいというよりは家庭と仕事を両立した中で出世できれば御の字だけど、出世できなくても生活に困ることなくやりがいを持てる仕事ができれば十分というくらいに考えていました。


 下の2つのグラフのうち、最初の方は年代別の課長の割合ですが、自分と同じ40代前半だと約1割の人が課長職になっていることがわかります。下の方のグラフは部長の割合を示していますが、50代後半で1割ほど。モデルケース的には、40代で課長、そこから10年ほど経って50代で部長になるというのが典型的な出世コースのようです。



 では、出世コースを歩む人とヒラのままの人の収入格差について、現実の数字を見てみましょう。厚生労働省「平成28年賃金構造基本統計調査」をベースに元記事で示されていたグラフ(↓)ですが、最初が大企業の場合、そして2番目が中企業、最後のものが小企業の場合を表しています。やはり大企業の部長・課長ともなると若くても年収1千万を超えてきますが、自分と同じ40代前半の世代の場合で課長と平社員の年収差は1.7倍もあります。ちなみに平康氏によれば、これまでは課長に昇進すると残業代がつかなくなって給料が減る「逆転現象」が起こっていたのですが、働き方改革の影響でそもそも残業を抑制されるので、今後は逆転が減ってくるどころか格差がより開く見込みだそうです。




 これらの数字を元に、有限会社人事・労務で試算された生涯賃金と年金についての数字がこちら(↓)。係長・課長・部長と順調に出世コースを歩む人は、1段階規模の大きな会社の係長止まりの人を上回る生涯賃金が得られるわけです。




しかし、この試算結果を見た自分の感想としては、むしろ、やはり大企業が有利なんだという驚きでした。大企業に勤めていれば、係長止まりだったとしても中小企業の出世コースの人とそれ程差がないのですから。こういう数字って、例えば就職活動の時ってあまり知らないと思うんです。こういう数字をきちんと知った上で、勢いのあるベンチャー企業や中小企業に就職して自分の手で会社を大きくしてやろうという野心がある人の場合はいいのですが、大企業で埋もれるよりも中小企業で出世しようと考えた人は、後悔してしまうかもしれません。

 日本の場合、大企業への就職や出世にこだわることをよしとしない風潮がある気がします。実際、最初のグラフで見たように、約半数の人は出世したいと思わないと答えていますが、たとえ本心では出世したくても、出世なんてどこ吹く風と見せたくてわざとそう答えているのかも知れません。元記事では示されていませんが、就職の時に大企業にこだわらず中小企業でもいいと答える人も、それなりに多いと予想されます。しかし、安易に「大企業でなくていい」「出世しないでいい」と言えてしまうのは、そう決めた自分の人生がその後どうなるかを分かっていないからではないでしょうか。ここではあえてこう結論づけたいと思います。学生の方は「大企業への就職」を、すでに就職している人は「出世」を、どんどん目指して下さいと。

2017年12月11日月曜日

"不良"はなぜモテなくなったのか

なぜ"不良の中学生"はモテなくなったのか | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online:

 今回の話題はちょっと趣向を変えて、なぜ不良の中学生はモテなくなったのかという話題。40代の自分が小中学生くらいの80年代〜90年代は、小学校でモテるのは走るのが速い子、中学から高校生くらいではやはりスポーツのできる子は根強くモテますが、いわゆる不良という枠も一定の「モテ」を示していたような気がします。それが最近では、不良の「モテ」枠がなくなってきているのだとか。博報堂生活総合研究所の酒井崇匡上席研究員による元記事が、その辺の時代の流れをうまく説明してくれています。

 警察庁による「少年の補導および保護の概況」(↓)によれば、検挙・補導された非行少年が最も多かったのは1983年のことです。83年といえば、NHK連続テレビ小説「おしん」の大ヒットや東京ディズニーランドの開園などがあった年で、まだ小学生だった自分は「モテる」ことにまだ意識が及んでいませんでしたが、いわゆる「いい子」よりもちょっと「悪い子」の方がカッコいいという風潮はすでに感じていたと思います。不良の象徴的存在と言われた、尾崎豊氏が「15の夜」でデビューしたのもこの年です。


 その後一旦は減ったものの97年あたりにもう一度ピークがあり、この年は14歳の少年による酒鬼薔薇事件や18歳未満の少年による凶悪犯罪が注目されました。そこからは減少の一辺倒で、近年では不良の数は83年のピークに比べると3分の1以下に減っていることが見て取れます。つまり、自分が子供の頃に比べて不良の数そのものがぐっと減っているのです。いったい不良はなぜそんなに減ってしまったのでしょう。

 酒井氏がこの質問を読み解く視点の一つとして、「子どもと大人の関係性の変化」を挙げておられます。その昔、子どもにとって大人とは反抗すべき敵でした。大人は子どもを力づくで支配しようとし、子どもたちは大人への不信感を募らせ抵抗するという図式だったのです。この大人と子供の敵対関係が、この20年間でぐっと変わってきたのです。博報堂生活総研が実施した「子ども調査」のデータ(↓)によれば、この20年間で大人はずっと子どもに歩み寄り、その結果として子どもにとってもはや大人は敵ではなくなったということが分かります。大人に力づくで押さえつけられたという経験を持つ子どもは今では少数派で、親が話を聞いてくれると感じている子どもも8割を超えています。


昔は大人は子どもを力で押さえつけ、それゆえに子どもは大人に反発するのが常でした。それが近年の少子化の進行によって、子どもは手厚くケアされる対象になったのです。今ではよほどのことがない限り子どもに手をあげなくなり、しっかり子どもと向き合うようになっているのです。

 自分は「少子化による子供の希少価値」がキーワードじゃないかと思います。第二次ベビーブーム(1971〜1974年)に生まれた子供が中学生になるくらいの頃、たくさんいる子どもには希少価値がありませんでした。今よりも大人の権威は絶対的で、極端に言えば子どもは大人の付属物であるかのような扱いだったと思います。忙しい大人は子ども1人1人に向き合う時間はなく、力づくで押さえつけるだけ。子どもたちはそれに反発して不良になっていく、という構図です。それに対して、少子化がどんどん進んだ現代は、子供が少なく「希少価値」が上がっています。大人が多いのに対して子供が少ない。もはや子どもは力で押さえつける存在ではなく、大切に育て上げる対象になったのです。大切にされた子どもは、大人に反抗する理由がなくなってしまったのです。反抗する相手がいなくなった子どもたちは大人しく、優しくなりました。不良は数そのものが激減したことももちろんですが、同世代からの共感も得られづらくなっていき、やがてモテなくなってしまったということでしょう。

ただ酒井氏は、子どもが大切に育てられるようになって親子関係もソフトなものになったので、これで全て安心とは単純に行かないと述べられています。実際のところ、警察庁の統計からは、子どもの家庭内暴力の発生件数は近年、小中高の全年齢で増加傾向にあるとも指摘されているのです。全体的には、子どもの生活は平和になりつつあるのですが、外からは見えにくい家庭内に問題が抱え込まれてしまったり、SNSなどの問題で友人関係が昔に比べてはるかに難しくなりそこに馴染めない子も多いなど、悩みの内容が一昔前と違ってきているという実情があるのでしょう。自分も小学生と保育園児の二児の親なのですが、親の立場からすれば子どもが悩みを抱え込んでしまわないか、中高生になってもコミュニケーションを欠かさないようにしなければならないと予感しています。

2017年12月8日金曜日

本当の働き方改革ってナンだ?

働くことはいつから「苦役」になったのか 〜余暇を楽しむのが人生?(内山 節) | 現代ビジネス | 講談社(1/3):

 最近さかんに叫ばれる「働き方改革」。それまで残業してようやくこなしていた仕事量を、「働き方改革」の名のもと労働時間だけ短縮され残業代を減らされても、何だか納得いかないなあと思う人は多いはず。この納得のいかなさは、「働き方改革」を「長時間労働を廃する」ことと同じだとしてしまっていることが、そもそもの原因かも知れません。今回は、哲学者・内山節氏の元記事がその辺のモヤモヤを分かりやすく切り取っていたので、ここでご紹介したいと思います。

 皆さんは、働くことは楽しいと感じますか、それとも苦しいことだと感じているでしょうか。現代社会では、「労働=労苦」という概念がはびこっています。歴史的には、古代の奴隷労働まで遡ってしまうと確かに労働は苦しみでしかありませんでしたが、中世ヨーロッパなどに書き残された文書によれば、労働には苦しいことも楽しいことも達成感もあって、実は当時の人たちはけっして労働は苦しみだけではなかったそうです。しかし、産業革命が起こり、近代的な労働者が生まれてくると、労働者にとっては自分たちの労働は苦しいと捉える人たちが増えてきます。内山氏によれば、その本当の原因は階級社会によるところが大きいのだそうです。

 労働が楽しいか苦しいか、その捉え方を分ける大きな要因の一つは、その労働を自分の意志で行なっているのか誰かの監視下で命令されて行なっているのかという点です。例えば、イーロン・マスク氏や孫正義氏など世界を股にかける経営者の中には、長時間労働も厭わないという人もたくさんいます。しかし彼らは、仕事を苦しいと感じているでしょうか。聞いたわけではありませんが、答えはノーのはずです。仕事が苦しみでしかなければ、彼らのあのバイタリティと前向きな姿勢が出てくるはずがありません。階級社会の上位にいる彼らは、ほぼ完全に自分の意思で仕事を行なっているので、楽しくて楽しくて仕方がないはずです(体力的な辛さはもちろんあるでしょうが、精神的には楽しいはず、ということです)。それに対して、階級社会の下位にいる労働者は、命令に従い、監視されて労働に従事しなければなりません。その仕事のしかたは、お金と労働力を引き換えているだけであって、こういった労働は苦しいに違いないのです。ちょっと単純化した例ですが、タクシー運転手という職業があります。一方で、ドライブが趣味でどこというアテもなく車を走らせることが好きという人もいます。しかし、乗客の命令に従いその監視の元で車を走らせるタクシー運転手という仕事は、自分の意思で行き先を決められるドライブに比べ、はるかに苦しいはずです。それは、車の運転という同じ作業をしているにも関わらずです。労働(仕事)を楽しいと捉えることができるか、苦しいと捉えるしかないかの分岐点はそこなのです。

 そして20世紀になって、労働が「何かを作り出す」ことではなく「従事する時間」に変わったことも、「労働=労苦」の構造に拍車をかけます。それまではたとえ工場の中でも、職人的な仕事のしかたが主流だったのですが、職人的な労働の内容を分解して単純労働をつなぐという生産方式が生まれました。職人がひとりで一から十までを作り上げるという生産方式から、ベルトコンベアで流れてきた製品のボルトを締めるだけとか部品を取り付けるだけといった単純作業を組み合わせるのです。労働が単純化されれば、管理が容易になり、経営者にとって望ましい効率性の最大化が可能になったのです。しかし、このパラダイム変換は労働者たちには不評でした。自分の腕に誇りをもって働いていた職人たちが、管理された時間労働をするだけの歯車に堕ちてしまったからです。そして、命令のもとで管理されながら歯車として行なう労働は、精神的に苦痛なことこの上ないのです。

 この労働者たちの不満を解消するために、20世紀前半のアメリカでは「余暇」という考え方を生み出しました。それは、労働は苦しくても、代わりに高い収入を得て余暇を楽しむことが人間的な生き方だという提案です。それまで労働のなかにあった誇りや楽しみを奪い去る代わりに、労働の外に楽しみをつくりだそうとしたのです。そして、この考え方が連綿と現代にも息づいているのです。人としての楽しみは仕事が終わってからの時間や休日に見いだし、労働そのものの楽しさは諦めさせる。そして、余暇によって不満のガス抜きをするために、それなりの賃金を支払う。

 この考え方にもとづいた時、社会的な悪とは一体何でしょうか。それは余暇が取れない「長時間労働」と余暇を楽しめない「低賃金」の二つのはずです。苦しさしかない労働時間が人生の大半を占め自由になる時間がないとか、せっかく時間があっても楽しむための可処分所得がないというのは、社会的な二大悪だと言えるはずです。

 そう考えると、「働き方改革」が労働者の長時間労働を廃して余暇を増やすことだけにフォーカスしている「いびつさ」が理解できるでしょう。二大悪の一つ「長時間労働」を廃そうとすれば、多くの企業では効率を上げて労働密度を高めようとすることになります。それはつまり、時間管理が徹底されることであり、労働の苦しさがますます上がることに繋がります。もう一つの「低賃金」にフォーカスが当たっていないという指摘もごもっともですが、本質はそんなことではありません。

 あるべき本当の「働き方改革」とは、労働の苦しさを増大させるものであっていいはずないのです。本当の「働き方改革」とは、労働者を単なる歯車から人間に戻すことではないでしょうか。時間管理されるだけの苦役からは、人間らしい誇りと楽しさのある労働は生み出されるはずはありません。より職人的な労働へ回帰して、労働のなかに楽しみを見出せる、そんな働き方こそが「働き方改革」ではないかと思うのです。

 実際、日本の中にも職人的な労働へ移行しようとしている人たちがいます。それは農業の世界だったりいわゆる職人の世界、ベンチャービジネスの世界だったりしますが、いずれも自分の意思で労働を行なう種の働き方です。確かにそういった職人世界へ飛び込むことは、短期的には低収入や長時間労働に繋がる場合がありますが、そんなことより労働が時間管理でしかないことから自由になることの方がずっと重要なのです。本来は仕事は楽しいものだ、ということをもう一度思い出す必要があると思うのです。

2017年12月7日木曜日

AI兵器というパンドラの箱

「AI・人工知能が変える戦場」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス:

 今回は人工知能(AI)ネタなのですが、結構重い話題で、戦争にAIを適用することの是非に関して。北朝鮮のあたりで一触触発の状況を呈してきていますが、近い将来、AIというテクノロジーが将来の戦場の様相を全く変えてしまうかもしれません。元記事は、NHK解説委員室、別府正一郎解説員によるものです。

 原子爆弾などの大量殺戮兵器とはまた違った意味での究極の兵器。それは、人間の兵士と違って、恐怖も疲れも知らない無敵の「AI兵器」です。もちろん、戦争後遺症(PTSD)を発症することもありません。最近のロボティクス・AI技術の発展から考えると、要素技術は揃いつつありますから、あと数年でAI兵器は現実のものとなる可能性があります。

 ところで、AI兵器(今はまだ軍事用ロボットいう言い方の方が適切かも知れませんが)開発の最前線といえばどこの国でしょうか。世界最大の軍隊を持つ米国だろうと思いきや、意外にもイスラエルがその最前線だという指摘があります。例えば、ストックホルム国際平和研究所によると、2010〜14年にイスラエルが輸出した無人航空機は165機で、米国の132機を抜いて世界一。2008年には、AI搭載の世界初の準自動軍用車を実戦配備しています。もちろん世界を牛耳ろうという米国も遅れを取るわけにいきませんので、両国を中心に世界中を巻き込んだ開発合戦と言ってもいいかも知れません。

 軍事用ロボットは、今のところ兵士1人が1台のロボットを操るというタイプのものが主流のようですが、AI開発で軍と連携するバルイラン大学コンピューター科学部のノア・アグモン上級研究員によれば、近い将来1人が数十台とか数百、数千のロボットを操作する時代が訪れるのだそうです。任務を与えると、ロボットの「群れ」が自動で交信し合って作業を分担し、その任務をこなします。アグモン氏ら世界の研究者が激しい競争を繰り広げているのは、最適な指示を与えるための「意思決定支援ソフト」です。こうなってくるともう、我々がイメージする、運転シミュレータかゲームセンターのレースゲームのような操縦席に座ってロボットの一挙手一投足をリモートコントロールするようなものではなく、Google HomeとかAmazon Echoのような音声操作でロボットの軍隊を指揮するような、そんな世界です。ロボットをリモートコントロールして戦争するのでさえ、操縦者には人を殺戮している実感がないところを、口頭で作戦を伝えるとロボット同士が戦い合うような世界は、もはや殺し合いというよりリアル・ロボット大戦ですよね(↓)。


 そんな世界がもう目の前に迫っている先月、国連のヨーロッパ本部でAI兵器の規制に関する会合が開かれたのだそうです。この会合は、非人道的な兵器を国際的に規制するかどうかを議論するもので、今回はおよそ90か国が代表団を派遣しました。最大の焦点は、人間を殺傷する攻撃を行う判断の主体をAIに委ねることが許されるのか、ということです。つまり、ドローンに代表されるリモートコントロールで人間が操縦する兵器と違って、兵器自らが判断して攻撃を仕掛ける、そんなことが許されるのかということです。

 AI兵器の推進派と反対派の相容れない点は、図(↓)のようになっています。推進派は、AI兵器は人間の兵士より早く正確な判断ができること、人間の兵士を危険な目に合わせなくて済むという点を利点だとしています。しかし一方で反対派は、AIが暴走するリスク、例えばAIは人間が思いもよらない判断を下す場合がありますが、意図的に民間人を殺傷するプログラムが埋め込まれていたというのでもない限り、たとえ民間人を巻き込んでも責任が問われないだろうと考えられています。さらに、人間の兵士を危険な目に合わせなくて済むというメリットは、裏を返せば為政者にとって戦争の敷居が下がることを意味し、今よりも容易に戦争が起きることになると主張します。最後の、倫理的かどうかという点については、個人的には戦争を論じている時点で倫理を持ち出すのは何か違うと思いますが、心を持たないAIが人間の生殺与奪の権を持つということは何とも言えない恐怖がある気がするので、自分はやや反対派に肩入れします。


 国によって事情が違うからか、この議論は収束を見せなかったそうです。途上国が「AI兵器」を幅広く定義して、開発の段階から厳しく禁じるべきだと訴えた一方で、米露の大国は、現時点で予防的な規制を拙速に作るべきではないと先送りしようとしています。


 自分は、AI兵器に関しては「国際的な規制が行われるべき」だと思います。そもそも「戦争」というのは絶対的な「悪」だと思います。AIによって正確に相手を攻撃できるとか、自国の兵士を危険な目に合わせなくて済む、なんていう論理は本能的に受け入れたくないのが実際のところです。極端な話ですが、刃物で殺害するよりも銃で頭を撃ち抜いて殺害する方が、相手は一瞬の苦しみで済む倫理的な殺害方法なのだから、日本でも銃を所持できるようにすべきだという論理は、受け入れたくありません。刃物だろうが銃だろうが、人を殺めることなんで許されるはずがないのです。

 しかし、テクノロジーは放っておくと必ず発展する方へ向かってきます。しかも、そのスピードは加速度的に増していきます。世界の著名な科学者たちは今年8月、AIの軍事利用に反対する共同声明を発表し、AI兵器がひとたび戦場に投入されれば、パンドラの箱が開きもはや閉じることができなくなると危機感を表明しています。十分に議論を尽くす時間は残されていないかも知れませんが、だからと言ってパンドラの箱を安易に開けてしまうことは、何としても避けなければならないと思うのです。

2017年12月5日火曜日

宝くじに当たったら幸せになれるの?

(299) 宝くじに当たったら幸せになれるの?―ラージ・ラグナタン - YouTube:

 夢を買うために年末ジャンボ宝くじを買い求める人も多いこの時期、今回は宝くじに当たった先は本当にバラ色の未来なのかという話題を考えてみようと思います。元記事はTED-Edチームによる動画(↓)で、大方の予想通り、宝くじの当選の向こうには本当の幸せは待っていないと述べています。動画は、テキサス大学オースティン校のビジネススクールでマーケティングの教鞭をとられるRaj Raghunathan氏の講義を編集したもので、「快楽順応」と呼ぶ現象の説明がわかりやすくて秀逸です。


 宝くじに本気で期待しているわけではありませんが、それでも当選して巨額の富を得ることを想像(妄想?)して、幸せな気分に浸った経験はありませんか。例えばリアルの人生がピンチの局面の時、今ここで宝くじに当選したら一気に現状打開どころか幸せの絶頂なのになあ、なんて。しかし、本当に高額当選したとしても、その後もずっと幸せが続くのでしょうか。実は残念なことですが、宝くじに当選した22人のその後の経過を調査した研究によると、被験者の幸福レベルの平均値は、当選から数ヶ月後には当選していない人の平均値以上にならなかったのだそうです。しかも、なかには当選前よりも幸福度が下がった人さえいたというのです、

 一体どうしてこんなことが起きるのでしょう。高額当選で人生バラ色...だったはずじゃないですか。実は、私たちが持つ楽しみ・怒り・不安・悲しみといった感情は、一定レベルを越えると富や社会的地位による影響を受けないことが分かっています。そして、人間の心には自分の感情の平衡を保とうとする性質があり、それは感情を安定させようという力になります。幸福についてもそれは同じで、このことを「快楽順応」と言います。例えば奮発して豪華な食事や旅行を楽しんだり、立派な家を購入したりすると幸せレベルは一気にグンと上がりますが、やがて時間が経つとその環境に慣れてしまい、幸せレベルは基準レベルくらいに戻ってしまうのです。

 厄介な快楽順応ですが、人間の心がこんな性質を持つのは逆のケースに非常に役に立つ性質だからです。例えば、不慮の事故にあって身体に麻痺が残ってしまった場合を考えてみてください。幸せレベルは一気にだだ下がり。世界中で自分は一番不幸だとさえ思うかもしれません。しかし時間が経つと、快楽順応とは逆に幸せレベルは徐々にですがどん底から基準レベルまで戻ってきます。つまり、快楽適応は人生におけるポジティブな変化による快楽を抑制してしまうのですが、一方で逆境から回復させるための力にもなるわけです。

 実際には、快楽順応によってせっかくの一攫千金の幸せが長続きしないだけでなく、幸せレベルをぐっと下げてしまう要因もあります。それは宝くじに当選したことで、逆に人は社会的に孤立することがあるということです。お金持ちになってしまったあなたは、周りの人からお金を無心されるようになるでしょう。そんな時、情に流されてお金を与えてしまうとなし崩し的に当選金は底をついてしまうでしょうし、たとえ固い意志で拒み続けたとしても、断り続けるうちに人間関係がズタズタになってしまう場合もあります。ある研究では、一部の人が意図的に裕福になるよう仕掛けられたモノポリーをプレイしてもらうと、ゲーム上で裕福な人が貧しい人に対して横柄な態度を取るようになったのだそうです。このことから、富は人を意地悪にする傾向があると言われており、宝くじの当選がそれまでの人間関係を破壊してしまうというケースは意外にも多いのだそうです。

 このように、せっかく宝くじに当選しても、短期的には幸せの絶頂に登ることができるでしょうが、長い目で見ると快楽順応によって幸せレベルは基準レベルに下がるでしょうし、むしろ社会的に孤立してしまって基準以下のレベルに下がってしまうかもしれません。しかし、そんな夢のないこと言われると、年末ジャンボも買いづらくなってしまいます。宝くじに当選しても、幸せレベルを高く保つことはできないものなのでしょうか。

 実は、それも不可能ではありません。それはお金の使い道を、次の2つのことを意識して決めることです。まず1つ目は、新しい場所を訪れたり新しい経験をしたりすることによって得られる幸せは、新しい車や家などのモノを買う幸せに比べて、快楽順応が遅いという傾向があるという研究結果が出ています。モノはいくら高価なものを買ってもすぐに慣れてしまい、それよりもっと高価なモノを買う、もっともっと高価なモノを買う...というようにエスカレートしてしまい、それでもやがては快楽順応してしまいます。それよりは、家族や友人と思い出を作ることにお金を使った方が、幸せが長続きするのです(そういえば以前「お金を出すならモノより思い出」という記事を書いたことがありました)。2つ目は、「自分のためにではなく他人のためにお金を使う」ということがあります。他人のためにお金を使った人々は自分のためにお金を使った人々よりも幸福レベルがずっと高かったという研究結果があります。

 心の準備なしに宝くじに高額当選してしまうと、むしろ当選前よりも不幸になってしまうかもしれません。モノよりも思い出に、自分よりも他人のために、という本当に幸せになれるお金の使い方をあらかじめ勉強しておけば、今年の年末ジャンボに大当たりしても心配ないですよね。でも、それって何て言うんでしたっけ。たしか、取らぬ狸の何とやら...

2017年12月2日土曜日

仕事ができない人を全員クビにしたらどうなるか

「仕事ができない人」全員を解雇した結果 仕事の質が高まり業務速度も向上 - ライブドアニュース:

 今回はロバート・ブルース・ショー氏の著書「EXTREME TEAMS(アップル、グーグルに続く次世代最先端企業の成功の秘訣)」(翻訳は上原裕美子氏)を紹介した新刊JP編集部の記事を元に、企業のあり方やチーミングについて考えてみようと思います。

 元記事で述べられているのは、オンラインDVDレンタルに始って映像ストリーミングサービスで成長するNetflix(ネットフリックス)社の例です。自分の会社でもそうですが、どの会社にも仕事ができる人とできない人がいると思います。仕事ができる人からすれば、できない人に足を引っ張られなければもっとパフォーマンスを出せるのにと歯がゆい思いをするかも知れません。その「もしも」を本当にやってしまったのが、Netflix社なのです。もちろん計算づくで実験を行なったというわけではなく、そこには止むに止まれぬ事情があったわけですが、結果的には非常に面白い実験になったのです。

 Netflixがまだ小規模な会社だった時、資金繰りに窮し、仕方なく有能な社員80人を残して、その他の人材を解雇しました。解雇した人員は、全社員の3割にもなりました。いくら優秀な人を残したからと言っても、それまで10人で行なってきた仕事を7人で行なうことになるわけですから、当然人員不足が懸念されました。優秀な7人も雑務や残務に追われてしまって、成長のための仕事に手が回らなくなるのはないかと。

 ところが、この心配は杞憂に終わったのです。むしろ起きたことは逆だったのです。同社CEOのReed Hastings氏は、「誰かの不手際をフォローするための雑務が必要なくなった」と説明しています。薄々は感じていても、それを言ってしまうと身も蓋もないということですが、レベルが高い人同士でないと成立しない会話や信頼関係・協力関係というのは確かに存在します。レベルが高い人と低い人が会話すると(レベルが低い人の方が上司であればなおさら)、低い人に合わせたコミュニケーションになってしまって、できる人のパフォーマンスは抑制されてしまいます。ちょうど、勉強ができる子とできない子が混在するクラスでの授業ができない子に合わせた内容になってしまい、天才を伸ばす教育ができないのに近いかも知れません。Netflixはレベルが高い人ばかりになったので、できる人のパフォーマンスが抑制されず、仕事の質が高まって業務スピードも上がったのだそうです。

 この経験から、Netflix社は極めて大きな教訓を得たのです。同社は、各分野に最高の人材を揃えることに執念を燃やします。「できない人」はもちろんのこと、「凡庸な人」の場所も同社にはありません。居場所が与えられるのは「卓越した人」だけです。Netflix社が社員に求めるのはただ一つ、「パフォーマンス」だけ。同社が社員に与える裁量は大きく、働き方も社員の自由です。ただ、社員に与える「自由」は厳しい要求との引き換えです。Netflix社が社員に対するメッセージは、次の言葉に集約されています。

好きな時間に働いていい、好きなだけ休暇を取ってもいい、最高のパフォーマンスを出し続けるならば。

 この態度を厳しいと見るか望むところと見るかは人それぞれでしょうが、確かに自分の経験上も、できる人同士が組んだ時のパフォーマンスの高さは経験があります。この手の話をする時、だいたい自分を「できる」側に考えてしまうのが傲慢なところではありますが、自分の仕事の領域も自分が仕事ができるいう自負がないとやっていけない世界ですので、ここはあえてできる方へ分類させてください。自分が開発チームを作る時の考え方は、「できる人を活かし切る」ということです。開発チームは、リーダー格だけが社員であとのメンバーは協力会社や外注というケースが多いのですが、メンバーの中でこの人はと見込んだ数人(自分は彼らをエースと呼んだり飛車角と呼んだりしますが)のパフォーマンスを出し切ることを目的に、他のメンバーにはその人が力を出し切るためのサポートをさせる布陣をとります。Netflixのように、できる人だけを残して他の人を切るという極端なことはしませんが、与える役割には明確な違いを作ります。例えば、エースには製品版のコーディング、サポートメンバーにはテストコードやドキュメント作りを任せる、といったやり方をします。アーキテクチャ設計や実装に関する細かい議論をするのは、自分とエースの人たちだけで行ない、サポートメンバーは議論の結果を伝えるだけです。

 もちろん、こういったやり方ができるのは、自分の仕事がソフトウェア開発というできる人とできない人との差がものすごく開く世界だからかもしれません。個人のパフォーマンス差が2倍くらいの業界なら、こういったやり方よりチームの結束を高めてみんなでスクラム組んで頑張って行こうというやり方の方が全体のパフォーマンスが出せるかもしれません。しかし、自分が関わるソフトウェア開発の世界は、個人のパフォーマンス差が100倍とも1万倍とも言われています。極論すれば、エースが1日でこなす仕事をできない人は10年かかるかもしれない、いや一生かかってもできないかもしれない。そんな世界なのです。

 Netflixもテクノロジー系企業のトップ企業の一つですので、こういった極端な方法が成功したのかも知れません。テクノロジーやソフトウェア開発の世界というのは、個人のパフォーマンスの差が他の世界と比べて極端に開くという点で、やはり特殊な世界なんだと思います。日本企業で文系出身の経営者などはその辺の認識がないので、アメリカのテック系企業との差がますます開くのかも知れない、なんて思ってしまいます。

2017年12月1日金曜日

頭の良さと悪さのバランス

東京新聞:科学者は「頭がよくなくてはいけない」。もっともだが、その後…:社説・コラム(TOKYO Web):

 今回は11月26日の東京新聞の筆洗の記事を元に、「頭の良さ」と「頭の悪さ」について考えてみようと思います。元記事では、物理学者の寺田寅彦氏がご自身の著書「科学者とあたま」で書かれている次の言葉が紹介されています。

 科学者は頭が良くなければならない。同時に頭が悪くなければならない。

 頭の良さと悪さを同居させよというのですから禅問答のようですが、ここで言われる「頭の良さ」はもちろん、読み書きソロバンのような基礎学力の上に、学問的な課題に対して仮説を立てるための記憶力や発想力・論理的思考力のようなものを指しているのでしょう。それに対して科学者が持つべき「頭の悪さ」というのは何でしょうか。おそらく、「頭の良さ」に基づいて立てられた仮説を検証する段階、例えば実験を重ねたり資料を集めたり論理的な裏付けを取ったり。そういう地道な作業を「愚直に」行なえるための、根気というか真面目さというか馬鹿正直さというか。そういうものを言っているのだと思います。

 つまり科学者にとって必要な「頭の良さ」と「頭の悪さ」は相反するものではなく、ここで言う「頭の悪さ」の反対語はむしろ「要領の良さ」「小利口さ」「ずる賢さ」みたいな言葉になるでしょう。元記事では、「頭の良さ」と「頭の悪さ」が両方必要であるにも関わらず、最近「頭の悪さ」が失われているんじゃないだろうかと指摘されているのです。

 「(いい意味での)頭の悪さ」が失われている。その槍玉に上がっているのが、製造業で相次ぐ品質検査をめぐる不正問題です。自分もある電機メーカーに勤めているので、こういったニュースは残念ですが、他人事ではなく自分のこととして身を引き締めなければならないところです。日産自動車、神戸製鋼、三菱マテリアルグループなど、次々と品質保証の問題が出てきています。

 これらの品質問題に共通しているのは、企業にとっての「頭の良さ」の象徴である「効率向上」「納期厳守」「収益拡大」が幅を利かせすぎていることです。もちろん企業経営を考えた時、「効率向上」「納期厳守」「収益拡大」は絶対的な正義です。しかし、大型の受注を勝ち取った人、多くの利益をもたらした人、納期を守ってプロジェクトを完遂した人のような花形に比べ、時間をかけて愚直に品質検査をし不良ゼロを達成した人に対し、企業はあまり評価を与えてきませんでした。彼らが達成した「不良ゼロ」ということを過小評価して、むしろもっと品質検査の効率向上すべきだとかコスト削減すべきだとか。そうして、品質保証に愚直に取り組む人を軽視し、効率よく手を抜いてコスト削減する人ばかりになった結果がコレじゃないでしょうか。

 実は自分の勤める会社では、従来は設計部門が設計・製作・試験もした製品に対して、品質保証部門が独自に試験を行なって出荷するという仕組みになっていました。効率向上を考えれば、設計部門で試験を行なうのだから品質保証部門でまた試験するのは頭がいいことではありません。しかし、作った人が行なう試験はどこかゆるい試験になりがちですので、品質保証部門はユーザー視点に立った試験や意地悪試験などと言われる試験を行なって、品質保証部門が合格を出さないうちは出荷できないという強い権限を持っていました。設計部門は理不尽とも思える品質保証部門の要求に泣く泣く対応させられるのですが、代わりに品質保証部門が合格を出した製品は、その後不具合が見つかったとしても全て品質保証部門が責任を取ります。品質保証部門は、出荷後の不具合は全部自分が責任を負わされるのですから、効率やコストなんか度外視で必死に試験をし、少しでも変なところがあると強権を発して設計部門に修正させます。この仕組みが品質保証部門の「いい意味での頭の悪さ」を引き出して、高品質を保ってこられたのだと思います。

 それが最近「効率向上」と言い出していて、品質保証部門は独自の試験を行わずに設計部門の行なった試験内容を確認するという「ドキュメント検査」なる方式に変えられてしまいました。それまで設計部門と品質保証部門で同じ試験を行なっていた場合もあるのですから、効率向上を考えれば1回で済ませるのが「頭のいい」ことだと考えたのかもしれません。しかし、設計部門にいる自分としては、これは「悪い意味で」の頭の良さだと思います。設計部門が納期やコストの縛りを受けて行なう試験というのは、やはり品質保証部門が縛りなしに「愚直に」行なう試験に比べて緩くなりがちなのです。自分は、今後の製品が「いい意味」での頭の悪い試験を行なわず出荷されてしまうことに、密かに身震いしているところなのです。

 働き方改革とか効率向上とか、聞こえのいい言葉を並べて小利口さを追求するのもいいでしょう。しかし、メーカーの生命線である品質の最後の砦は「愚直さ」を持つ人たちが支えていることもまた事実なのです。