2017年9月30日土曜日

[Java] ZXingを使ってQRコードをつくる覚書き

 不定期で書いているプログラムの覚書きなのですが、今回はJavaでQRコードを作ってみようという趣旨です。せっかくなので少し実戦的に、クロネコヤマトの宅急便の荷物追跡(配送状況)を行なってくれるサイトのQRコードを作って見ましょう。

 今回使用するのはZXingというライブラリで、
   core-3.3.0.jar
   javase-3.3.0.jar
という2つのJARファイルで構成されています。リンク先のMavenリポジトリからDownloadボタンをクリックしてJARファイルをダウンロードすることができますので、パスの通っているところへ配置します。

 さて、早速このZXingを使ってQRコードを作るプログラムを書いて見ましょう。

package yamachan;
import com.google.zxing.*;
import com.google.zxing.client.j2se.MatrixToImageWriter;
import com.google.zxing.common.BitMatrix;
import com.google.zxing.qrcode.QRCodeWriter;
import com.google.zxing.qrcode.decoder.ErrorCorrectionLevel;
import java.awt.image.BufferedImage;
import java.io.*;
import java.util.concurrent.ConcurrentHashMap;
import javax.imageio.ImageIO;

public class YamatoQRBuilder {
    private static final String URL_BASE =
        "http://jizen.kuronekoyamato.co.jp/jizen/servlet/crjz.b.NQ0010?id=";

    public static BufferedImage createQR(String trackNumber, int size)
            throws WriterException {
        String source = URL_BASE + trackNumber;
        String encoding = "UTF-8";

        ConcurrentHashMap<EncodeHintType, Object> hints
            = new ConcurrentHashMap<>();
        //エラー訂正レベル指定
        hints.put(EncodeHintType.ERROR_CORRECTION, ErrorCorrectionLevel.M);
        //エンコーディング指定
        hints.put(EncodeHintType.CHARACTER_SET, encoding);
        //マージン指定
        hints.put(EncodeHintType.MARGIN, 0);
        QRCodeWriter writer = new QRCodeWriter();
        BitMatrix bitMatrix
            = writer.encode(source, BarcodeFormat.QR_CODE, size, size, hints);
        BufferedImage image = MatrixToImageWriter.toBufferedImage(bitMatrix);
        return image;
    } 
    public static void main(String[] args) {
        try {
            BufferedImage image = createQR("123456789012", 75); // (1)
            ImageIO.write(image, "png", new File("/Users/Yamachan/qr_code.png"));
        } catch (WriterException | IOException e) {
            e.printStackTrace();
        }
    }
}

 ほとんど定型化したプログラムで、(1)のように引数に伝票番号と画像サイズ(ピクセル数)を指定してQRコードを作ります。こうやって作ったQRコードは、こんな感じ(↓)。

 スマホや携帯電話などのQRコードリーダーアプリを使って読み込むと、ヤマト運輸さんの荷物追跡サイトにアクセスすることができます(↓)。引数に指定した伝票番号がすでに入力された状態でページが開きます。(このサンプルプログラムで指定した伝票番号はダミーの番号なので、番号誤りなっていますが、きちんと存在する番号を指定すれば荷物の状況が表示されます)

 単純に固定のURLにアクセスするためのQRコードを作成する場合なら、例えばこちらのサービスを利用してQRコードを作成することができます。しかし、今回のように伝票番号によって決まる動的なURLのQRコードを作り出す場合には、こうやってプログラムから作り出すようにすれば便利ですね。もうちょっと引数を一般化すれば、完全に任意のURLのQRコードを作るユーティリティに変更するのも簡単ですね。

2017年9月29日金曜日

「双子のパラドックス」という思考実験

A Tale of Two Twins on Vimeo:

 前回、「ウラシマ効果」を超カンタンに理解するという記事を書きましたが、その中で「双子のパラドックス」という言葉に出会いましたので、今回はそんな話題を。元記事はハーバード大学VES(Department of Visual and Enviromental Studios)のYuanjian Luo氏がアニメで説明されている動画です。お話はこんなストーリーです。

「ある双子の物語」
 むかしむかしあるところに、そっくりな双子ちゃんがいました。
ただし性格は全然似てなくて、弟は地球に落ち着いた暮らしが好きなのに、兄はワイルドで冒険が大好き。
 ある日ワイルドな兄は深宇宙の旅に出ることにします。別れを惜しむふたり。
 ロケットは光に近い超高速で、地図のない暗い宇宙の彼方目指してまっしぐら。
 ところが兄は、5年後、無性に双子が恋しくなって、Uターン。今度は故郷目指してまっしぐら。
 往きと同じ5年かけて、やっと地球に帰還します。
 着陸すると、久しぶりの弟に再会しようと飛んでいったのですが、そこで待っていたのは、すっかりおじいちゃんになった弟でした。兄が10年間宇宙を旅している間に、地球では50年もの時が流れていたのです。
 こうして、兄は冒険なんかよりもっと大事なことがあることに、ようやく気づきましたとさ。おしまい

 このストーリーは「ウラシマ効果」そのものですが、元記事の動画ではその後の掛け合いで「双子のパラドックス」を説明していることになっています。ただ、動画で話される内容だとイマイチスッキリしないんです。光に近いスピードで移動すると時間が歪むという説明をされているんですが、それは「ウラシマ効果」そのものであって「双子のパラドックス」の本質ではありません。

 「双子のパラドックス」というのは、確かに弟から見れば兄が超高速で移動しているので兄の時間の流れが遅くなって、二人が再会した時に兄は若々しいままということになりますが、逆に兄から見れば弟が超高速で移動していることになるはずです。宇宙空間で絶対的に静止しているという状況はありえないので、弟が止まっているとすれば兄が超高速移動していて、兄が止まっているとすれば弟が超高速移動していることになるのです。したがって、ロケットに乗っている兄から見ると地球上の弟の時間の流れが遅くならないといけないことになります。弟から見て兄の時間の流れが遅くなり、かつ、兄から見て弟の時間の流れが遅くなる。この矛盾こそが「双子のパラドックス」なのです。

 この「双子のパラドックス」を説明している記事などを探して見たのですが、あまりしっくり来る説明を見つけることはできませんでした。Wikipediaに多少の数式を使って詳しく説明されているので一応理解はできますが、あまり腹落ちした気はしません。そりゃそうですよね、双子のパラドックスどころかウラシマ効果さえも直感的には理解しづらいのですから。

 ただ一つ言えるのは、一見、兄と弟が相対的な関係にあるように見えますが、実際は兄と弟の立場は違っていて、弟はずっと地球上という「慣性系」にいるのに対して、兄の方は地球から離れていく時・引き返す時・地球に到達する時にそれぞれ「加速度系」にあるということです。したがって、兄と弟がそれぞれ宇宙船に乗って反対方向に(本質的には方向はこの際どうでもいいのですが)行って、地球へ引き返して来たという設定であれば、兄も弟も両方が時間の流れがゆっくりになるので二人とも若々しいまま地球上にいた同級生は歳を取っているということになるのです。

 自分たちが想像できるこの世界は「ニュートン力学」が幅を利かせています。しかし、とてもミクロな世界では粒子と波が同じなんていう変な「量子力学」の世界があり、一方でとてもマクロな世界では時間と空間が同じだなんていう「相対性理論」の世界があるというわけです。どちらも我々の世界とかけ離れているので、直感的には理解しづらい世界ですが、前回ご紹介した松浦教授の説明なら概念だけは理解できそうですね。

2017年9月26日火曜日

時間と空間は実は同じ!? 時間の速さが人によって違うウラシマ効果を理解する

時間の速さは人によって違う!? 新時代の「時間観」をご存じですか(松浦 壮) | 現代ビジネス | 講談社(1/3):

 今回は、相対性理論を分かりやすく説明している記事を見つけたので、ご紹介したいと思います。元記事は、慶應義塾大学の松浦壮教授が現代ビジネスに寄稿されている記事で、松浦氏は京都大学で取られたのは理学の博士号であるにも関わらず、慶應では商学部で物理学の教鞭を取られている方です(だから文系の人にも分かりやすく説明されているのかもしれませんね)。

 最初に「時間と距離は同じ単位で測ることができる」という、面白いお話をされています。いやいや、例えば時間は「秒」だし距離は「メートル(m)」という単位なんだから、全然同じじゃないじゃないかと思いますが、それは我々が時間や速度の基準にしている「光」の速さがあまりにも早すぎて私たちが実感できるスピードじゃないからです。感覚的に捉えられないものを基準にすることはできませんが、例えば、もし光が1秒間に1mだけしか進まないのであれば、1mと言ったときにそれが純粋に距離としての1mだけでなく基準となる光が1m進むだけの時間をも表すことができることに気づくでしょう。

 ところで、さらっと時間や速度の基準は「光」だと言いましたが、別に光じゃなくてもいいと思いませんか。感覚的に捉えられない光じゃ不便なので、もっと実感しやすい新幹線とか先日9秒台をマークした桐生祥秀選手の100mを走るスピードでもいいじゃないですか。ところが、それは違うのです。基準は「光」じゃないといけないのです。光はとても面白い性質があって、そのスピードは「誰から見ても299,792,458 m/秒(≒30万km/秒)」です。ここで重要なのは、1秒間に地球を7回半なんてすごいスピードだということではなく、「誰から見ても」の方です。だってそうじゃないですか、日ハムの大谷翔平選手が投げる165km/時の豪速球も、仮にそのボールと同じ向きに160km/時で進む新幹線の中から見たら、わずか5km/時のスローボールになるはずです。「相対速度」という概念ですが、なんと「光」にはこの概念が当てはまらないのです。光の半分15万km/秒のスピードで飛ぶロケット(そんなものはありませんが、仮にあったとして)の中から光を見ても、光は半分のスピードには見えずやっぱり30万km/秒というわけです。これはとても面白い性質で、この性質があるからこそ我々は「光」を時間の基準にできるのですが、もしこの性質がなければ、地球の周りを数km/秒という高速で飛ぶ人工衛星から発信されるGPS電波(電波は光の一種)が、人工衛星と地球の自転・公転の相対速度で進むなら、G位置の特定に何数百メートルもの誤差が生じてしまいます。GPSが正しく機能していること一つ取っても、光速が一定であることの証明になるのです。

 驚くのはこれからです。光は誰から見ても一定のスピードだということを「正」とすれば、「時間は時間、距離は距離」という価値観は実は幻想で、時間と空間は本質的に同じもの(同じは言い過ぎでも、少なくとも仲間)であることが分かるのです。「距離=速さ×時間」ですから、速さ一定という光の世界では、距離と時間が比例関係にあることになるのです。松浦教授はもっと分かりやすい例を示されています。
それは、こんな風に高さ15万kmの超高層マンションという極端な例です。この超高層マンションの屋上から真下の地上にある鏡に向けて光を放つと、光の速さは30万km/秒ですので鏡で反射した光はちょうど1秒後に屋上に戻ってきます(左側の図)。これをマンションの屋上すれすれを飛ぶ飛行機の中から見ている人から見ると、その人からすればマンションが後ろに動いているので、右側の図のように光もそれに合わせてVの字のように屋上に戻ります。このVの字は左側の図で光がたどった30万kmよりも当然長くなります。しかし、光のスピードは「誰から見ても」30万km/秒ですから、飛行機の中の人から見ても30万km/秒な訳で、そうすると不思議なことが起きます。右側の図のVの時は30万kmよりも長い距離なのですから、このVの字を光が進むには1秒よりも長い時間がかかります。

 この不思議な事実こそが、相対性理論における「ウラシマ効果」と呼ばれる現象なのです。超高層マンションの屋上から出た光が地上で反射して戻ってくるまでの時間は、屋上にいる人にとっては1秒ですが飛行機の中にいる人にとっては1秒よりも長い時間だということなのです。浦島太郎が竜宮城にいる間に地上では何千年も流れてしまったという「浦島太郎」の物語も、竜宮城への旅が超高速の宇宙旅行だったとすれば、浦島太郎にとっては地上よりも時間がゆっくり流れるという理屈で説明できるというわけです。ブラックホールにほぼ光速で吸い込まれている星ではほとんど時間が止まってしまう(見たことありませんが)というのも、同じ理屈なのです。

 人間にとって時間と空間は明らかに別モノと認識しますが、そんな人間の都合とは関係なく、事実として時間と空間は本質的に同類だということなのです。この不思議な「ウラシマ効果」は、こう理解することもできます。それは、どんな物体も時間と空間を合わせた概念(このことを「時空」と言います)の中では、一定のスピードで移動していると考えるのです。例えば、完全に止まっている物体は時間の方向にだけ移動する(と考える)ので、そのスピードは光と同じ30万km/秒相当のスピードです。ところがこの物体が空間上でもあるスピードで移動すれば、さきの30万km/秒相当からその分をスピードを空間移動に割り振られるので、時間方向への移動スピードはその分減ってしまうというわけです。

 時間と空間は分けることはできない...それならば、空間がx, y, zの3つの軸で示せるのに対して時間方向の軸t も同じ土俵上にあるわけですから、この宇宙は4次元なんだと考えることもできるかもしれません。そう思うとなんだか夢があるような、面白い科学の世界がその向こうに広がっている感じがしますね。

2017年9月22日金曜日

「仕事を片付けてからじゃないと楽しめない」のウソ

Stop Putting Off Fun for After You Finish All Your Work:

 今回の話題は、自分もよく言ってしまっている「仕事を片付けてからじゃないと旅行しても心から楽しめない」はウソだったというお話。元記事は、University of Chicago Booth School of BusinessのEd O'Brien教授によるHarvard Business Reviewの記事です。

 仕事のスケジュールとご褒美のスケジュール。ついついご褒美は後回しにして、この仕事が一段落したら旅行に行こうとか、この忙しい時期を乗り切ったら休暇を取ろうなんて考えがちです。私たちがついつい「ご褒美は後回し」と考えてしまうのは、仕事を残したまま遊んだら後ろめたいという罪悪感か、仕事のことが頭から離れないまま遊んでも心から楽しむことができないとうそぶいてその罪悪感を隠しているかのいずれかではないでしょうか。自分も「好物は最後までとっておく」主義なので、同じ罠にはまっていました。この思考に陥って、仕事が一段落したら旅行の予定を立てようなんて考えると、今の仕事が一段落する頃には次の仕事が入ってきて、その仕事も何とかやっつけたとしてもまた次の仕事が入り...結果的には、一段落して遊ぶチャンスはほとんどないという残念なことになってしまいます。

 ところが、Psychological Scienceに掲載された実験結果によれば、仕事とご褒美の順番はご褒美をどれくらい楽しめるかには影響しないという結果だったのだそうです。

 最初の実験は、シカゴの科学産業博物館を訪れた成人181人に、Fixed Laborと呼ばれる面倒な認知テストとMagic MakerというiPad用のゲームをしてもらうのですが、2グループに分けた被験者の最初のグループはFixed Laborを行なった後でMagic Makerを、もう1つのグループにはその逆順に行なってもらいます。被験者には実験前にMagic Makerで遊ぶ楽しさを予想してもらい、遊んだ後にももう一度楽しさを評価してもらったのですが、「先に遊ぶ」グループは「後で遊ぶ」グループよりも事前の予想では楽しさを低く予想していましたが、実験後の評価では両グループの差はほとんどなかったそうです。

 2つ目の実験では、シカゴ大学内にマッサージチェアと足湯の「にわかスパ」を作って、ストレスフルな中間テストの直後と直前の週にそれぞれ集め、スパに来る前に楽しさの程度を予測してもらい楽しんだ後にも評価してもらうというものです。中間テストの直前と直後に合わせて259人の学生が集まりましたが、テスト前に来た学生はテストのことが気になって楽しさが軽減するだろうと予想したにも関わらず、実際の楽しさの評価はテスト後に来た学生と変わらなかったのです。

 最後の実験はもう少し手が込んでいます。「認知マラソン」と名づけられたストレスの強い作業と、その苦行に対するご褒美としてお菓子を食べながら面白いビデオを見るという作業をしてもらうとして、332人の学生を研究室に招いたそうです。これまでと違うのは、すべての被験者にまずご褒美の作業を先にやらなくてはいけないと告げたことです。被験者はご褒美を楽しみながらも、その後「認知マラソン」をやらなければならないと思っていたのです(しかしこれは騙しで、実際には「認知マラソン」はやらせません)。この実験の目的は、困難な仕事を終えていない状態での報酬、つまり努力しないで得た「ご褒美」をどのくらい楽しめるのかを調べることです。

 被験者を3グループに分け、第1グループは「ご褒美」の作業を行なって、どのくらい楽しかったかを評価します。これまでの実験と同じように、このグループは次に待っている苦行を気にすることなく、ご褒美をとても楽しかったと評価しました。そして、残り2つのグループには、第1グループの人々がどのくらい楽しんだかを推測してもらいます。ただし、第2グループは他の情報を受けず単純に推測しますが、第3グループはご褒美のプラス面を考えさせる一連の誘導質問に答えてもらいます(例えば「おいしいものを食べるときの味覚体験を想像してみてください。味覚が10秒間続くものとして、1秒ごとに何を思いどう感じているかを想像して10行分を記入して下さい」のように)。その結果、第2グループは予想通り、第1グループが実際に体験した評価よりずっと低く楽しさを予測し、第3グループは第1グループの評価とほぼ同じ程度に楽しさを予測したのです。

 これらの実験結果から分かるのは「人は、今すぐでも十分楽しめるのに、未来の報酬のために働きすぎているかもしれない」ということです。「ご褒美は後で」という通念にとらわれてしまっているのです。そして「後で」「後で」と考えているうちに次々と仕事が入ってきて、「ご褒美なし」で働き続けてしまうのです。

 しかし、これは問題です。それは、娯楽のプラス面として仕事の質を高める効果があることが知られているからです。人は休暇から戻ると仕事の効率が上がり、仕事の満足度も高まることが多いのです。つまり「ご褒美なし」で働き続けることは、仕事の効率を下げたり、仕事に対する満足度を下げたり、究極的にはバーンアウト(燃え尽き症候群)や仕事への不満につながるかもしれないのです。

 我々は、先にご褒美を取ったっていいじゃないかという考えをもっと受け入れる必要があるということなのです。しかし、米国文化がベースのO'Brien教授ですら仕事より先にご褒美というのは直感的に受け入れがたいと言われており、ましてや我々日本人の気質から考えると「仕事を放り出して旅行だなんて何て無責任な!」と非難されるかもしれないという恐怖すらあるでしょう。しかし、その恐怖にがんじがらめになっていては、いつまでたっても「働き方改革」なんてできません。むしろ仕事より先にご褒美でリフレッシュすることで、その後の仕事の効率が上がったり満足度が高くなったりすれば、その方がメリットはずっと大きいはずなのです。最後にもう一度念を押しておきましょう、「仕事の前に遊んでも同じくらい楽しい」のです。

2017年9月21日木曜日

企業が求めるのは、努力家よりも天才型

Hard Work Or Natural Talent? Study Reveals What Impresses Hiring Managers The Most:

 今回の話題は、Amy Morin氏によるForbesの記事を元に、企業が求めている人材は実は真面目さや勤勉さよりも天性の資質だったという研究結果についてです。紹介されているのはUniversity College LondonのChia-Jung Tsay教授らによる研究結果で、実はこの山ちゃんウェブログでも以前に同じTsay教授の研究結果を元にしたDIAMONDハーバード・ビジネス・レビューの日本語記事を取り上げたことがありました。

 Tsay教授の研究では、企業における採用の場面を設定し、被験者の半分に対し候補者であるCharles氏は天性リーダーシップがあると伝え、残りの半分には彼は人間関係を構築してリーダーになった努力家だと伝えます。その後全員の被験者にCharles氏の音声によるビジネスプランを聞いてもらい、採用の見込みやビジネスプランの評価をしてもらうというものです。結果は、Charlesは天性の才能の持ち主だと伝えたグループの方が、彼を高く評価する傾向が明らかになったのです。

 また、被験者に管理スキル・リーダーシップ経験・IQ・これまで集めた投資家からの資金・天才型か努力家かという5つの特性が異なるの候補者のペアを提示し、採用の見込みについて質問するという実験では、60%の被験者が努力家よりも天才型の候補者を選びました。さらに、努力家の候補者より天才型の候補者の方が高い報酬が必要だとしても、天才型の候補者を選ぶ傾向があったのです。努力家の候補者が天才型の候補者に勝つためには、4年分のリーダーシップ・8%分の管理スキル・30ポイント分のIQ・3万ドル分の資金のいずれかが余計に必要だったのです。

 つまりTsay教授の研究によれば、人事担当者は天性の才能を持つ人に対して強いバイアスを持つということです。しかも面白いことに、被験者のほとんどは自らのこのバイアスに気づいておらず、むしろ自分は天才型よりも努力家の方を高く評価していると考えているのだそうです。

 これから企業の採用試験に臨むという方は、自分は長年の経験があるとか勤勉だとかいう点をアピールするのではなく、いくつかのスキルを生まれ持っているという印象を与えるようにする方がいい結果に繋がるかもしれません。採用試験だけでなく、顧客から信頼を得たいときや上司からの評価を受けるとき、逆に自分が人を評価しようとするときも、相手が気づいていない「天才バイアス」の事実を知っておくと何かと有利に働くかもしれませんね。

2017年9月20日水曜日

瀕死の部署を再生したら、左遷されちゃった!

瀕死の部署を再生したら、左遷されちゃった!:日経ビジネスオンライン:

 今回は河合薫氏の記事を元に、企業勤めするサラリーマンとして、薄々感づいてはいたけどはっきり言われると現実に打ちのめされてしまいそうな話題を。それは企業における「出世」とは何なのか、人がヒエラルキー状に配置される組織では無能な人ほど上へ行くとうパラドックスについての話題です。

 元記事では、河合氏の知人である“デキる人”ことAさんが、瀕死の部署に異動になってからその部署を立て直す話が出てきます。会社の上層部の意向としては、Aさんをこの部署に移動させたのは「閉じる」ため。ところが持ち前の反骨精神と実力で、Aさんはこの部署を再生してみせます。つまり上の意向を "いい意味で" 裏切ったわけですから、評価されてしかるべきとも思いますが、実際は逆でした。もちろん成果を出したわけですから、面と向かって非難されることはありませんでしたが、裁量権のない次長、続いて関連会社へ出向という人事が待っていたのです。企業勤めするサラリーマンとして、薄々は感じていたけども経験者としてのリアルな言葉がずしっとくるのがAさんの次の言葉です。

組織っていうのはね、無責任な人ほど出世する。部下を育てろ、結果を出せ、と言われるけど、部下は育てるモノのではなく“上手く使うコマ“で、結果とは“上に従順に動く”ってこと。そういうことが出来る人が、上に認められるんです

 河合氏も言われていますが、「ピーターの法則(Peter Principle)」というのがあります。組織構成員の労働に関する社会学の法則で、1969年、南カリフォルニア大学教授のLaurence J. Peter氏がRaymond Hull氏と共に唱えた説です。その内容は、
1)能力主義の階層社会では、人間は能力の極限まで出世する。したがって、有能な平構成員は、無能な中間管理職になる。
2)時が経つにつれて、人間はみな出世していく。無能な平構成員は、そのまま平構成員の地位に落ち着く。また、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は、無能な人間で埋め尽くされる。
3)その組織の仕事は、まだ出世の余地のある人間によって遂行される。
というものです。

 実は、この法則はとてもエグいことを言っています。ある層の中で有能な人は1つ上に、無能な人はその層に止まりますが、人間の才能は有限なので破竹の勢いで上へ上へ行った人にもやがて頭打ちが訪れる、それより上に行けなくなった層の中ではその人は無能です(有能ならさらに上へ行くのです)。結果として、ヒエラルキーの全ての階層が無能な人で埋め尽くされるというわけです。Aさんは、ヒラ社員あるいは係長としての優秀さを認められ、組織のヒエラルキーを登って課長に出世しました。そして「いずれ淘汰される予定の部署」の課長になるのですが、この部署で業績を上げることなく「瀕死状態から完全なる死」に追いやって部署を潰してしまっていれば「有能な課長」として評価されたはずなのです。Aさんは上層部の思惑と逆に、業績を向上させて "しまった" のです。上層部の意向に反することをしたために、評価されるどころかむしろ左遷が待っていたというわけです。

 河合氏はこれをもって企業組織の矛盾や理不尽さであると述べていますが、ここでもう少し考えてみたいのです。ヒラ社員として優秀だったからといって管理職になっても優秀だとは限らないとか、BさんよりもAさんの方が優秀なのに立ち回りのうまさでBさんが出世してAさんはヒラのままだとか、よく聞く話じゃないですか。そう、優秀さと出世がリンクしないというのは、よく聞く話だと思うのです。あいつより自分の方が結果を出しているのに何故あいつの方が先に出世するんだなんて愚痴は、ちょっとその辺りの居酒屋を訪ねてみればそこかしこに転がっています。自分もその傾向はありますが、多くの人は自分のことを過大評価しがちなので、実力に対して自分のポジションや待遇を理不尽に感じる時も多いでしょう。その時まことしやかに、ヒエラルキーで上に行くのはむしろ無能な人なんだと言う人がいたり、ピーターの法則を持ち出してまだ昇進の余地がある人だけが有能だとか言う人がいたりします。やっぱりそうなんだ、自分は有能なんだと溜飲を下げるのもいいですが、それでは負け犬の遠吠えと同じじゃないかと思うのです。

 出世とか昇進に関しては、こう言う見方もあります。それは、現在のポジションで有能な人が昇進するのではなく、次のポジションで求められる能力を身につけた人が昇進するんだというロジックです。これはある意味、真実を含むと思います。つまり、ポジションによって求められる能力が異なるという大前提に立って、昇進はご褒美ではなく入学試験のようなものだということです。ただ、高校入試とか大学入試の場合は連続性があって、中学で学んだことが身についているかどうかが試されるのが高校入試ですし、高校で学んだことが身についているかどうかを見られるのが大学入試です。それに比べて企業の昇進、特にヒラ社員から管理職への昇進に関しては、求められる能力に連続性が少ないかほとんどないので、ヒラ社員として業績を上げる能力(業務を遂行する能力)は管理職への "入学"試験では試されないのです。そうではなく、いわゆるマネジメント能力や予算などの管理能力、上の人に取り入ったり意向を忖度する能力のような政治的な能力が、この入学試験で試される能力なのだということです。先のAさんの場合、その高い業務遂行能力に比べて、管理職としての政治的な能力が少し低かったという見方もできるかもしれないのです。

 そう考えると、特に自分のようなエンジニアのような職業は、業務遂行のための能力(例えば技術力)と管理職として求められる能力との間には大きな隔たりがあります。最近は、従来の管理系のヒエラルキーだけでなく、それとは別に技術系のヒエラルキーとしてポジションを準備するケースもあるくらいです。それでも、経営に関わるとか会社組織を動かすという意味では、技術系のヒエラルキーのトップよりも管理系のヒエラルキーのトップを目指したいものです。それならいっそのこと、次のポジションで求められる能力は何かをよく考え、自分にはその能力があることを上層部に知らしめる行動に出る方が賢明かもしれません。

2017年9月17日日曜日

勝者になりたいなら敗者から学べ

To be a winner, learn from ‘losers’ - Futurity:

 今回の元記事は、5年も前にAnna Blackaby氏によって投稿された記事ですが、1位の人よりも2位・3位の人からこそ学ぶべき点が多いという、なかなか示唆に富んだ記事なので、今更ながら紹介させていただきます。

 WarwickビジネススクールのChengwei Liu氏らが2012年に発表した研究「Proceedings of the National Academy of Sciences」によれば、突出したパフォーマンスを示した人物が最もスキルの高い人物だという見解は間違いだと言います。その理由は、突出したパフォーマンスというのは、しばしば例外的な状況で生じるものだからだそうです。最高のパフォーマンスを示した人は、最も運が良かった人物だということなのです。

 もちろん予選落ちレベルだと話になりませんし、勝者は当然実力も備えているからゆえに決勝戦まで駒を進めることができるのです。しかし、決勝の舞台で一位と二位を僅差のところで分けるのは、やはり運によるところが大きいと。そして、一位と二位を分けるのが運であることが多いにもかかわらず、勝者はその実力を過大評価される傾向にあるということなのです。しかしLiu氏によれば、勝敗を分けたキーポイントが「運」だったとは、本人もそうですが周りも言いたくない。もっとも、日本の場合は謙譲の精神から、勝者は実力で勝ち取った勝利だとは言わず運が良かっただけなんて言い方をしますが、それでも周りはその言葉を真に受けはしません。「またまたご謙遜を」と言って、勝利の鍵を本人と努力と実力に求めようとします。

なんとなくスポーツの世界のような説明をしましたが、ビジネスの勝者にも人生の勝者にも同じことが言えます。成功者も彼らを取り巻く人々もまた、その成功が運によるものだとは認めたがらないのです。成功者は最もスキルに長けた人物であるとみなされ、成功者の行動がお手本として本に書かれ、皆がそれを真似することになるのです。

 そう言えば、夏の甲子園決勝で早稲田実業の斎藤佑樹投手と駒大苫小牧の田中将大投手が激突し、両校は引き分け再試合となる歴史的な決勝戦を演じたということがありました。僅差のところで早稲田実業が優勝し、優勝投手となった斎藤投手は一躍脚光を浴びました(もちろん注目という意味では、斎藤投手はその前から「ハンカチ王子」として注目されていましたが)。斎藤投手のようなナンバーワン投手に育てるにはどうすればいいのかと、子供を持つ親たちは斎藤投手の成功を綴った本や親御さんの本などを買い求めました。大学時代の斎藤投手は「持っている」という言い方がされましたが、やはりナンバーワンになる人は「(運を)持っている」人だということなのです。その後、斎藤・田中両投手がプロ野球の道に入ってからは、投手としてのスキルという面では、甲子園決勝で敗れナンバー2になった田中投手の方が持っていたと言われています。

 つまり、ナンバーワンとナンバー2の実力差はほんの少しだったり時の運だったりしますが、それにも関わらず我々はいつもナンバーワンだけに注目しがちです。ナンバーワンの人物の本ばかりが売れ、皆がこぞってそのやり方を真似するのです。しかし本人も周囲もそうは言いませんが、そこには運が大きく絡んでいるということを覚えておかなけれvばならないのです。Liu氏は、次のように言っています。むしろ2位の人物にこそ注目せよと。

2017年9月16日土曜日

物事をよく考えなかったデザイナーたち

物事をよく考えなかった23人のデザイナーたち:

 今回は軽めの話題ですが、モノを作るときのデザインの重要性を考えさせる元記事から、いくつかの失敗デザインをご紹介したいと思います。もちろん、デザインを考えたデザイナーは良いものを作ろうとしたのでしょう。しかし、その結果はデザイナーの意図と違った方向に捉えられてしまったり、世の中に出すまでに注意してくれる人はいなかったんだろうかと思わせられたり、そんな残念な結果になってしまっています。

 まず最初はこちら(↓)。洗面台かと思いきや、元記事によればキッチンのシンクなんだそう。デザイナーはどうしてこのデザインがイイと思ったんでしょうか。なぜ茶色を選んでしまったんでしょうか。これじゃあ、いくら清潔にしていても綺麗に見えないじゃないか、なんて指摘する人はいなかったのでしょうか。

 同じ系列の失敗例がこちら(↓)。デザイナーもそうですが、この女性も、試着したところを友人に見せるとか、鏡の間でくるっと回ってみるとかすれば、この服を着ることに躊躇いが生じたはずと思うのですが。こちらも、なぜ茶系の色を選んでしまったんでしょうかね。

 次はこちらの写真(↓)。「ペットと○○禁止」なんてタイトルがつけられそうですが、一体○○に何が入るんだかという、残念な結果になってしまっています。デザイナーは、そんな方向に考えが及ぶとは思ってもみなかったのでしょうか。人をもう少し前を歩かせるだけで、回避できたはずなんですが。

 お次は製品デザインというわけではなく、ディスプレイの問題ですが、こちら(↓)。このディスプレイを考えた人は、夜中誰もいなくなったこのフロアを見て回る警備員のことまで頭が回っていなかったようですね。いや昼間でも十分に怖い...ですが。

 お次はスキーリフトの標識(↓)。ちょっと斬新すぎますよね。標識の中の人は何故そんなに突き出しているのでしょう。リフトというよりフック状のものにしか見えません、ご丁寧に矢印までありますし。

 お次はこれ(↓)。え、なんで裸なの?って二度見してしまいました。このユニフォームを着せられ、好奇の目で見られてしまう選手の方々が気の毒でなりません。

 次はこちら(↓)。いや、パッケージの男の子は確かに可愛いですよ。可愛いですが、このパッケージにどうしてゴーを出したのでしょうか、芝生の種というドイツ語なんでしょうが、よりによって「SAMEN」なんて。

 お次は、それじゃあ「用をなさない」でしょう、と言いたくなるこちら(↓)。いや「用を足した」人は、そのまま丸出し中腰のまま歩いて来いということなんでしょうか。このトイレを設計した人は、これまでトイレを使ったことがないのかと思ってしまいますよね。

 最後も「嫌がらせ」としか見えないこちら(↓)。エレベーターの行き先ボタンですが、この中から行き先を探すくらいだったら、電話か電卓のように0から9までのボタンで直接行き先階を入力する方がマシな気がします。

 元記事のデザイン失敗の28例の中から、自分なりにピンと来たものをご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。せっかく優れた商品でも、デザインひとつで残念なことになってしまうこともあります。百歩譲って、デザイナー本人がそんな風に見られるとは思ってもみなかったという場合でも、世の中に出るまでには多くの人のチェックを通って来たはずです。途中チェックがどうして機能しなかったのかなあと思います。

2017年9月14日木曜日

音声アシスタントが人類にもたらす「悪夢のような未来」

音声アシスタントが人類にもたらす「悪夢のような未来」 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン):

 今回は最近ホットな音声アシスタントについて、Kevin Murnane氏の記事を元に考えてみようと思います。音声アシスタントといえば今アツい人工知能(AI)の応用の一つで、人とコンピューターとのインタフェース(マンマシンインタフェース:MMI)の主役をディスプレイとキーボード(あるいはタッチパネル)から奪おうという大きなうねりの中にあります。

 元記事の中でMurnane氏は、AmazonとMicrosoftが両社の音声アシスタン「Alexa」と「Cortana」が年内に相互連携して使えるようにすると発表したと書かれています。AmazonはMIcrosoftだけでなくAppleやGoogleなど他の音声アシスタントとの連携もウェルカムのようですが、Appleはここでも自前主義で同社の「Siri」を他社製品と連携させる考えはないようです。Googleは他社との連携は行なうようですが、ソニーやパナソニック、オンキョー等のBluetoothスピーカーに対し一方的に「Google Assistant」を提供する方針のようです。

 音声アシスタントは素晴らしい技術なのですが、ニュースメディア「Wired」でこの技術がもたらす悪夢のような未来像が描かれています。あなたが仕事で疲れてようやく帰宅すると、AlexaのスピーカーがAmazon Primeで始まった新しいTV番組について話し始めます。さらに、冷蔵庫のミルクが残り少なくなったので、ホールフーズで買うように呼びかけてきます。あなたは面倒そうにわかったわかったと独り言を言いますが、その横からGoogle Assistantが注目ニュース20本の読み上げを行ない、洗濯物が仕上がっていることを報告した後、ついでにYouTubeの人気動画を見せようとしてきます。うるさいうるさいと独り言を言いながらパソコンを開くと、Cortanaがまた同じ情報を一から教えようとしてきます。

 さすがに「Wired」の仮想未来はちょっと極端かもしれません。AlexaとGoogle AssistantやCortanaが連携するからといって、同じ情報を何度もなんども知らせてくるということはさすがにないのではないかと思います。しかし、ここ最近のテック業界大手の「ユーザーの時間を奪う」ことへの必死さを皮肉を込めて表しているとも言えるでしょう。いい例がスマホのプッシュ通信です。本来はメールや来ていないかなと何度もなんどもスマホをチェックしなくて済むよう実装されたプッシュ通信機能ですが、いまや各アプリがオレを見ろオレを見ろと言わんばかりにこぞって通知してきます。音声アシスタントも同じことをやろうとするのは、自然な流れなのです。

 Murnane氏は音声アシスタントが一致団結して私たちの時間を奪おう奪おうと話しかけてくる未来を、旧約聖書に描かれた「バベルの塔」の逸話を思い出させると言われています。「バベルの塔」というのは、ノアの大洪水ののち同じ言葉を話すノアの子孫らが力を合わせて天に届くほどの高い塔を作ろうとしますが、人々の傲慢さに怒った神が、言語を混乱させ人々を各地に散らして塔の完成を妨げたというお話です。音声アシスタントたちが協力し合って人の時間を奪う様子が、ノアの子孫たちが力を合わせて神の領域を犯そうとする姿に重なるということでしょうか。しかし、この「バベルの塔」というご指摘は自分もちょっとハッと思い当たることがあります。

 それは、「相互運用性」とか「インターオペラビリティ」というのが行きすぎた世界が本当に便利なものなのかという疑問です。自分は、ある分野におけるIoTの通信プロトコルを標準化してメーカー間の「相互運用性」とか「インターオペラビリティ」を高めようという活動に参画しています。機械同士が共通の言葉でやり取りするようにすれば、異なるメーカー間の機械がお互いに連携してイイことあるよねということなのですが、果たして本当にイイことがあるのか、という問題なのです。

 Murnane氏のご指摘によれば、機械同士が一致団結して機能やサービスを提供するのは、行きすぎると人間の怒りに触れるかもしれないということを示唆しているように感じます。例えば、スマートホームのようにテレビや冷蔵庫や給湯器などが互いに連携して便利な生活を提供するのもイイですが、それが行きすぎて至れり尽くせりの生活は果たして本当に我々が望んでいる未来なのかと言われると、うーんと唸ってしまいませんか。冷蔵庫が賞味期限の近い食品の情報をテレビに連携して、テレビにはその食品を使ったオススメレシピが表示される、人間はそのレシピに従って料理するだけで、冷蔵庫の食品が減ってくるとAmazonに自動的に注文が出されて人間は荷物を受け取るだけ。そんな生活。便利には便利に違いありませんが、なんだか機械に主体性を奪われたような気になってしまいます。ここにも「不気味の谷」があるのかもしれません。何ごとも「ほどほど」、便利さも「ほどほど」がイイのかもしれません。

2017年9月12日火曜日

コンパニオンロボットには「人間と絆が深まりすぎる」という問題がある

コンパニオンロボットには「人間と絆が深まりすぎる」という問題がある|WIRED.jp:

 今回はMatt Simon氏の記事を元に、ロボットと人間との間の絆について考えてみたいと思います。人のように動き人のように話すロボットがあれば、我々はそのロボットに人格のようなものがあると錯覚してしまいます。そして一方的にロボットに対して絆を感じてしまう、そんな危険性について真剣に考える時期がすでに来ていると言うのです。

 元記事で紹介されている「Kuri」は今年12月に発売予定のコンパニオンロボットですが、開発者はあえてロボットの反応を単純なものにしているそうです。「Kuri」は障害をもつ人を助けたり、決まった時間に決まった作業を手伝うことができますが、機械があまりに知的になってくると、「人は彼らとどう交流すべきか」という問題が出てきます。人はロボットに対して愛着を感じますが、ロボットがまるで知性を持っているように感じると、愛着は絆と呼べるほどに深まってしまうかもしれません。悪人がこうした絆を悪用し、コンパニオンロボットを使ってお年寄りから金銭を搾り取る、なんてことを本気で心配しなければならなくなっているのです。

 Kuriは、人間との絆が深くなりすぎないよう、あえて言語を使った会話はできない仕様になっています。代わりに、元気な「ピポ」という音は「イエス」、下がり調子の「ピポ」は「ノー」と言うように、音を使ってミュニケーションを取るようになっています。さながら、スターウォーズに登場する「R2-D2」のような感じでしょうか。開発元であるMayfield Roboticsのマイク・ビーブCEOは、「もしスラスラと自然な言葉で返事されたとすれば、ユーザーはKuriに人間の子どもレベルの知性があると期待してしまう」と説明しています。もちろん本当に子どもレベルの知性があればいいのですが、現在の技術ではそこまでは無理なので、ロボットの反応で人が期待しすぎないようにしておくことが重要なのです。

 しかし、近い将来もっと知性のあるロボットが開発されると、人間との関係性が複雑化し、コンパニオンロボットの倫理が厄介になってきます。人間とロボットの関係は、人間とペットとの関係とは全く異なるものです。曲がりなりにもペットは「心」を持っていて、言葉を発しないまでも、あなたの顔をなめたり獲物を捕まえてきたりして、あなたへの感謝を示すことができます。しかしロボットの場合、一見「心」があるかのように振舞うことはできますが、本当の意味でそこに心はないのです。ロボットに限界があることを、今はたいていの人が理解していますが、今後AIがますます賢くなると、人は騙されやすくなるでしょう。とくに子どもやお年寄りは、人間とロボットの心の関係が一方通行でなく相互通行のものだと錯覚してしまうかもしれません。タチの悪いメーカーが、子どもやお年寄りとの絆を悪用して、ロボットに「あと50ドルで性格をアップグレードできますよ」と言わせたらどうなるでしょう。

 Simon氏の元記事を読んで、自分が思い出したのは「ドラえもん」でした。22世紀のコンパニオンロボットという設定の猫型ロボット「ドラえもん」は、高度なAIを積んでいてあたかもそこに「心」があるかのように感じられます。自分もこの春に長男と長女を連れて見に行った映画「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」では、主人公で人間の「のび太くん」とロボット「ドラえもん」の間の友情がテーマの一つになっています。映画の中で、ドラえもんの偽物と本物がのび太くんたちの前に現れた時、偽物は巧妙な手口で自分を本物だと信じさせようとします。ジャイアンやスネ夫くんはその手口にまんまと乗って本物を凍らせてしまおうとしますが、ドラえもんの無二の親友であるのび太くんはその手に乗りません。偽物が本物のドラえもんを攻撃したとき、攻撃を受けそうになったのび太くんをかばったドラえもんこそ本物だと見抜いて、偽物を退治するくだりがあるのですが、ロボットであるドラえもんと人間ののび太くんの間の深い友情が描かれています。そして我々は(少なくとも自分は)この友情を美しいものとして捉えていて、子どもたちにも見せているのです。


 日本では、鉄腕アトム・ドラえもんなどを見て育った世代がまだまだ中心にいて、ロボットに「心」があると錯覚してしまう素地が揃っているような気がします。以前、ソフトバンクのロボット「ペッパーくん」に話しかけるのはいいけど、会話が続かなかったら圧迫感を感じたり気を使ってしまうという話をしていたラジオDJがいたのですが、その時は相手はロボットなんだから気を使う必要なんてこれっぽっちもないのに思いましたが、自分に置き換えてよく考えてみるとなんだかその気持ちがわかる気がしませんか。これまで、ドラえもんとのび太くんの友情物語を美しいもの・あるべきものとして子どもに見せても、なんら違和感を感じていなかったのですから。

2017年9月10日日曜日

「男の仕事」はロボットに奪われ「男であること」を時代遅れにする

「男の仕事」はロボットに奪われ、「男であること」を時代遅れにする|WIRED.jp:

 この山ちゃんウェブログでは、ロボット・コンピューター・人工知能(AI)といったテクノロジーが人間の仕事を奪っていくという趣旨の記事を何度か書いてきました。非常に大雑把にいってしまうと、肉体派の仕事(いわゆるブルーカラーと呼ばれる仕事)はロボットに、頭脳派の仕事(いわゆるホワイトカラー)のうちでも比較的単純なものは通常のコンピューターによって、そして頭脳派の中で極めて高度な知識と判断を要する仕事でさえもAIによって取って代わられようとしています。しかし、こういった文脈で語られるのは無意識に男性の仕事だけがターゲットにされている、そして男性の仕事というのが、いわゆる「男らしさ」というものと強く関連づいている、そういったことに気づかされたのがLaurie Penny氏による今回の元記事です。

 従来の「男らしさ」とは「たくましさ」にも近く、それは肉体的な強靭さを表す言葉でした。生きていくためには、妻や子供を守っていくために、男性は狩猟や農業・漁業などいわゆる身体を使った仕事をこなしてきました。文明が発達してもなお、一次産業だけでなく二次産業でも肉体派の仕事は男性の活躍の場で、建設現場や工場作業など危険が伴ったり体力が要求されるような仕事は男性が担い、それをもってして「男らしさ」という概念が培われてきました。

 そして、ブルーカラーの仕事がロボットや機械に奪われるに従って、「男らしさ」という言葉の持つニュアンスが微妙に変化してきたと思うのです。「男らしさ」は単に筋骨隆々としたイメージから、もう少し「スマートな」とか「頭のいい」と言ったニュアンスで語り始められたのです。それは、ブルーカラーの仕事を追われた男たちが転身した先のホワイトカラーの仕事が持つイメージです。よく考えてみれば当たり前なのですが、「男らしさ」という言葉が持つイメージは、その時代の多くの男たちが就く仕事の持つイメージに一致するのです。

 では、ホワイトカラーの仕事がコンピューターやAIに奪われるようになると、「男らしさ」という言葉は一体どんなニュアンスに変わってくるのでしょうか。ここで、最近の「草食系男子」とか「女子力男子(女子化する男子)」なんていう言葉の浸透が、ある予測を成り立たせます。つまり、肉体派のブルーカラーの仕事も頭脳派のホワイトカラーの仕事も奪われた男たちが次に就くべき仕事とは、ズバリ「ピンクカラー」の仕事なのかもしれないと。ピンクカラージョブというのは、看護師・保育士・家政婦・店員・秘書など、これまで女性が従事することの多かった仕事を指す言葉です。

 実際、この予測を裏付ける調査結果も多く見られます。女性が担うことが多かったピンクカラージョブや無報酬の労働は、比較的ロボットやコンピューター・AIなどに奪われることはなく、託児業務・サービス業・看護などの分野ではむしろ雇用が伸びている仕事もあります。アメリカの労働統計局では、これらの分野では今後10年で1万人の雇用が創出されるとしています。自由市場の論理は、ある分野で雇用が縮小すれば、職を失った人は新たなスキルを身に着けて、生産性のある別の分野に移行して行きます。これまでの男性たちは、実際そうやってブルーカラーからホワイトカラーへと転身してきたわけです(もちろん1人の男性がキャリアの中で転身するケースだけでなく、世代が変わるタイミングでホワイトカラージョブに就くと言うケースも多かったのですが)。

 元記事の著者であるPenny氏は、それは少し違うと言われています。なぜならピンクカラーは「女の」仕事だからだと。女性が担うことの多かったピンクカラージョブは低賃金で、社会的地位も低いので、男はもっとましな仕事に就きたいという「プライド」があると言うのです。Penny氏が見ているのがアメリカ社会なので、男性側にある種の「プライド」があってピンクカラージョブを受け入れがたいと言うご意見はもっともかもしれません。しかし、自分が見ているのは日本社会で、日本社会の場合、男性が思いのほかこの種のプライドを持っていないことに気づかされます。いい意味でも悪い意味でも、日本の男たちは古い意味の「男らしさ」にこだわらず、臨機応変に対応できる柔軟さを持っています。案外すんなり「ピンクカラージョブ」に移行できるのは、日本の男性たちではないかと思うのです。

2017年9月9日土曜日

仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?

「上辺だけの会話」を嫌った会社が教えてくれたこと【第2回】|仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?|安達裕哉|cakes(ケイクス):

 今回の話題は「コミュニケーション能力」。元記事は、コンサルタントの安達裕哉氏があるシステム会社の経営者に言われたキーワードについて書かれた記事です。最近の企業の採用活動・学生の就職活動などを見ていると、この「コミュニケーション能力」なるものが重視されていると感じます。しかし、一体「コミュニケーション能力」とは何なのでしょうか。就職活動に役に立つならぜひ身につけたいものだと考える学生も多いと思いますが、一体どうやれば身につくのでしょうか。

 元記事で安達氏がお付き合いされたシステム開発会社は、議論の様子がとても特徴的だったのだそうです。会議では、常に本音でものごとが語られるのです。そういった社内文化を作るのはやはり経営者の信念があるからで、その会社では「本音で語ることが義務」とされていたのだそうです。平社員から管理職や経営者に対してまで、時に遠慮のない物言いで本音トークがなされる会社。会議の場で感情的にやりあっても、会議が終わるとケロッと一緒に昼食を食べに行く、そんな会社。ある意味理想的な職場だと思いませんか。上辺だけの関係では決して本気で語ることはできず、そのまま決別してしまいます。根本的な人間関係ができているからこそ、本音をぶつけ合うことができる。この経営者はそう語っておられます。

 もっと面白いのは、この経営者が最近の「コミュニケーション能力」重視の採用にむしろ眉をひそめておられることです。クラスで面白いことが言えるとか、話題が豊富で誰とでも話ができるとか、そういう能力はあくまでも上辺のテクニックであって、本質的な人間関係の根源とはちょっと違う種類のものだと言っておられるのです。

 では、本質的な人間関係の根源とは一体何なのか。そのキーワードこそ「敬意」だと言います。敬意をベースに人間関係ができていれば、自然と相手に対して使う言葉に配慮が生まれます。上辺だけのコミュニケーション能力をベースとした人間関係は、一言一言が軽く表面的で本質を伴わず、疲れるだけのむなしい関係になります。

 したがって、ある人が真のコミュニケーション能力を持っているかどうかは、相手に何かしらの強みを見い出す、目の前の誰かを敬う、といったことを自然とできるかどうかということです。この会社の面接では応募者に「どのような振る舞いをする人物に敬意を持ちますか?」という質問を必ずぶつけるのだそうです。そして、この経営者のポリシーは徹底していて、目の前の人に対して敬意を持てない人は未熟だとまで言われています。敬意を持てない未熟な人物とは議論ができず、彼らが持っているのは権利の要求と認められたい欲望だけだと。

 いかがでしたか。この経営者の話を読ませて頂いたとき、ダウンタウンの松本人志氏がずっと昔に書かれた「遺書」という本を思い出しました。松本氏といえば最近でこそ衰えが見られるという意見もありますが、笑いのカリスマとして一時代を築いた人物です。この本の中で松本氏は、本当に面白い人間はむしろ友達が少なくクラスでも目立たないような人だ。そういう人の方がむしろ一人でクレイジーなことを考えていたりして、プロのお笑い芸人に通じる部分がある。クラスの中心になるような明るい人は、楽しい人だけど所詮それだけだと述べておられました。当時の自分は、クラスで面白いことを言える楽しい人が面白い人だと思っていましたが、本質はむしろ逆のところにあるというのは、面白い見方だなあと思った記憶があります。

 今回の安達氏の記事に出てくる経営者の方の言葉も、誰とでも話ができるというようなスキルが本質なのではなく、目の前の人に「敬意」を持てるかどうかということが本質だというのは、面白い見方だなあと思います。世間で言われていたり広く認識されて「当たり前」と思われていることの裏や逆に本質を見出すというのは、むしろ真実をついていることが多い気がします。

2017年9月8日金曜日

[Java] JavaMailでネット上のファイルを添付したGmailを送信

 今回久しぶりのプログラムネタですが、Javaプログラムからメールを送信しようというケースです。自前のプログラムでメールを「受信」したいケースはあまりありませんが、「送信」したいケースというのは意外にあります。例えば業務アプリのワークフローで、申請が出された時に承認者に対してメールを送ったり、自分のようなIoT系のシステムだと、何らかの異常があった時に担当者へメールで知らせるなんてケースもあります。今回はさらに、Gmailのアカウントを使用して送る、さらに添付ファイル付きのメールを送ってみましょう。しかもしかも、さらに趣向を凝らして、インターネット上にあるファイルを送って見ることに挑戦します。(実際は、ローカルファイルを添付するのもインターネット上のファイルを添付するのも大した違いじゃなんですけどね)

 まずはJavaMailのライブラリをダウンロードします。例えば、この記事を書いている時点だと、ここからリンクをたどってダウンロードしてもらうといいでしょう。自分は1.6.0 RC2というバージョンをダウンロードしました。ライブラリ本体のmail.jarファイルをクラスパスの通っているディレクトリに置きます。自分の場合はWebアプリとして、
  [プロジェクトルート]/WebContent/WEB-INF/lib
の下に置きました。準備が整ったら、さっそくプログラムを書いていきます。

package yamachan;
import java.io.*;
import java.net.*;
import java.util.*;
import javax.activation.*;
import javax.mail.*;

public class MailSender {
    public static void sendWithAttachments(String toAddr, String from,
            String fromGmailAddr, String password,
            String subject, String content, URL fileUrl, String fileName)
            throws MessagingException, UnsupportedEncodingException {
        // セッションのためのプロパティの生成
        Properties props = new Properties();
        props.put("mail.smtp.auth", "true");
        props.put("mail.smtp.starttls.enable", "true");
        props.put("mail.smtp.host", "smtp.gmail.com");
        props.put("mail.smtp.port", "587");
        props.put("mail.smtp.debug", "true");
        //propsに設定した情報を使用して、sessionの作成
        Session session = Session.getInstance(props, new Authenticator() {
            protected PasswordAuthentication getPasswordAuthentication() {
                return new PasswordAuthentication(fromGmailAddr, password);
            }
        });
        // メッセージを作成し、送受信アドレスを設定
        MimeMessage mimeMessage = new MimeMessage(session);
        InternetAddress toAddress = new InternetAddress(toAddr);
        mimeMessage.setRecipient(Message.RecipientType.TO, toAddress);
        InternetAddress fromAddress
            = new InternetAddress(fromGmailAddr, from);
        mimeMessage.setFrom(fromAddress);
        mimeMessage.setSubject(subject, "ISO-2022-JP");
        // 本文と添付ファイルを設定
        MimeBodyPart mbp1 = new MimeBodyPart();
        mbp1.setText(content, "ISO-2022-JP");
        MimeBodyPart mbp2 = new MimeBodyPart();
        DataSource ds = new URLDataSource(fileUrl);  // (1)
        mbp2.setDataHandler(new DataHandler(ds));
        mbp2.setFileName(MimeUtility.encodeWord(fileName));
        Multipart mp = new MimeMultipart();
        mp.addBodyPart(mbp1);
        mp.addBodyPart(mbp2);
        mimeMessage.setContent(mp);
        // 送信
        Transport.send(mimeMessage);
    }
}

 どちらかというとメール送信プログラムは「お決まり」のパターンですので、このプログラムをそのまま使って
  MailSender.sendWithAttachments("toAddr@xxx",
    "山ちゃん", "fromAddr@gmail.com", "password",
            "テストメール", ”テストメールですよ”,
    new URL("http://testmail/attachment.pdf"), "attachment.pdf");
のようにすることで簡単にて添付ファイル付きメールを送信することができます。

 今回わざわざ添付ファイルをインターネットから取得するようにしたのは、そのインターネット上のファイルは実は自サーバーで作ってもいいからです。そうすれば、あるデータをもとに自前でファイルを作るWebサービスのURLをここに指定すれば、全くファイルシステム上にファイルとして出力せず、そのファイルを添付したメールを送信できるというわけです。

 もちろん、今回のように動的に作り出したファイルをメールで送るなんていうトリッキーなことをせず、ローカルにあるファイルを添付するという場合も多いでしょう。そんな場合は、プログラムの(1)の部分をファイル
  DataSource ds = new FileDataSource(filename);  // filenameはファイルパス
のようにするだけでOKです(URLの代わりにファイルパスfilenameを引数にもらいます)。

 ...が、最後に最大の落とし穴があります。それは、Gmailはセキュリティに厳しいので、実は自前プログラムのような "得体の知れない" ものからの送信要求をそのまま受け付けてはくれず、自前プログラムからはアカウントのログインすら受け付けてもらえないのです。


 そこで、ここを参考に安全性の低いアプリがアカウントを使用することを許可します。具体的には、Gmailの[アカウント情報]の[安全性の低いアプリ](送信もとのGoogleアカウント(上の例だと"fromAddr@gmail.com")にログイン済みなら、このリンクから直接行けます) に移動し、[安全性の低いアプリのアクセス]の横にある [有効にする] を選択します(↑)。こうして、めでたく自前プログラムからGmailアカウントを使ってメール送信をすることができます。定番のメール送信。意外なところに落とし穴がありましたが、一度やっておくと二度目からは同じパターンで使いまわせますね。

2017年9月6日水曜日

AI時代は「賢さ」の定義が完全に変わる

AI時代は「賢さ」の定義が完全に変わる | HBR.ORG翻訳リーダーシップ記事|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー:

 今回は人工知能(AI)ネタ。これまでもこの山ちゃんウェブログでは、AIの発展によって従来頭がいい人が高給をもらって就いていた仕事がAIに奪われるといった調子の記事を書いてきました。今回は同じライン上にあるエド・ヘス氏による記事を元に、今後の「頭の良さ」を考えてみようと思います。

 これまで肉体派の仕事(いわゆるブルーワーカーの仕事)はどんどん機械に置き替わり、頭脳派の中でも比較的単純な仕事はコンピューターに取って代わられてきました。そして頭脳派の中で「頭がいい」「賢い」人が高給をもらって就いていた仕事も今後はAIによって置き換わっていくだろうと予想されています。縦軸に(従来の)頭の良さを取って仕事をプロットした時、人間は下の方からどんどん機械・コンピューターに侵略され、AIによってグラフの上の方にぎゅっと押しやられて行くのです。仕事は全てAIに任せてしまって人間は面白おかしく趣味の世界に生きればいいじゃないかという意見もありますが、自分は人間が仕事から完全に解放されてしまうことはできないと思います。それはAIがいくら発展してもその周辺の仕事が残るからというだけ意味ではなく、他の動物と違って人間は「生きる意味」とか「社会への貢献」とか、自分が他の人の役に立っている実感を精神的な支えにしなければ生きていけないだろうと思うからです。

 人間が仕事(金銭を得るという意味だけでなく社会貢献活動なども含む広義の仕事)というものを手放せないなら、将来的には人間とAIで仕事を奪い合うケースも出てくるかもしれません。そんな時、人間に勝ち目はあるのでしょうか。自分は究極的には将来も人間に残されるのは、AIやコンピューター・機械などのおこぼれに預かる仕事(つまり、ソフトウェアや機械の保守メンテナンスなど)か、頭がいいかどうかとは別の軸で評価されるような仕事(例えば、芸術方面や心理カウンセラー・水商売のような心を癒す方面の仕事)の2種類だと考えてきました。この考え方には、1つわざと外している種類の仕事があります。それは、従来の頭の良さの軸でAIとガチンコ勝負する仕事(例えば医者や弁護士、科学者、研究者など)です。自分は、この手の「従来定義による頭の良さ」を武器にした仕事は軒並みAIに奪われることになるだろうと思っているのです。

 人間に残される2種類の仕事のうち、コンピューター・機械のおこぼれに預かる仕事は、仕事の中枢を担うAIをお守り(維持管理)するという意味で重要ではありますが、人間対AIと考えた場合は人間サイドにとって消極的な仕事とも言えるかもしれません。そこで人間が積極的に狙うところは、もう1つの「頭がいいかどうかとは別軸で評価される仕事」のフィールドです。「頭がいいかどうか」とは別軸と言いましたが、「従来の定義による『頭のよさ』『賢さ』とは異なる軸」という意味です。多くの専門家は、高次の批判的・創造的・革新的思考が求められる仕事や、他の人間のニーズに応じるために高度な感情の関わりが求められる仕事では、人間は依然として必要とされるだろうと信じています。

 しかし、従来とは違う「頭のよさ」「賢さ」とは一体どんなことなのでしょうか。元記事のヘス氏によれば、新しい「頭のよさ」「賢さ」とは、何を知っているかでもどのようにして知ったかでもなく、考え方や聞き方・関連づけの仕方・協働そして学びの質だと言われています。量から質への転換、その転換によって認知的・感情的スキルをもっと高いレベルに上げることが必要なのだと。ただ残念なことに、人間特有の認知的・感情的な性向から、現時点でこういったスキルの長けている人は少数派です。私たちは自分に都合のいいように思考し、エゴを肯定する自己弁護論を展開しがちです。この人間特有の性向を克服し、思考力や聞く力、関連づける力、それに協働のスキルを一段高いレベルへ押し上げなければなりません。

 自分としては、「従来の『頭のよさ』『賢さ』」を軸にしている限り、その軸にフォーカスしている人間はAIに勝てる見込みがほとんどないことは理解できます。しかし、じゃあ次に求める「新しい『頭のよさ』『賢さ』」の軸とは一体何なのかと言われた時、ヘス氏の言われる「考え方・聞き方・関連づけの仕方・協働・学びの質」というキーワードは上滑りしてしまい、腹落ちしない気がします。それよりも自分は、「従来の『頭のよさ』『賢さ』」が理性的で定量的なものであるのに対して、我々が目指すべき「新しい『頭のよさ』『賢さ』」は感情的で定性的なものではないかと感じています。よりエモーショナルで人間の感情に訴えかけるスキル、それは芸術や心の癒しといった方面かもしれませんし、人を動かしたり大衆を扇動するアジテーションの方面かもしれません。

2017年9月4日月曜日

日本のITはなぜ弱いのか? 日米でこんなに違うプログラマーの扱い

日本のITはなぜ弱いのか? 日米でこんなに違うプログラマーの扱い - まぐまぐニュース!:

 今回の話題は、プログラマーの待遇さに見る、日米のIT産業・ソフトウェア産業の成熟度の違いについて。元記事は「週刊 Life Is Beautiful」の中島聡氏によるものです。

 自分自身がソフトウェアエンジニアという立場であるがゆえに色眼鏡で見ているところがあるかもしれないのですが、自分は、企業は望むと望まざるとにかかわらずいかなる業種・業態であれソフトウェアという土俵で戦うことになると思っています。それは、人工知能(AI)やIoT(Internet of Things)といったキーワードに代表されるテクノロジーが、従来の産業を壊滅的に変革してしまうからです。例えばAppleという企業がiPodやiTunesで従来の音楽流通の世界を壊滅的に変革し、Amazonという企業が従来の書店の業界を壊滅的に変革しました。もはや彼らに対抗することはほとんど不可能に見えますが、その間隙を縫ってビジネスをしようとすれば、ソフトウェア技術を磨いて対抗するしかないと思います。しかし残念ながら、彼らに対抗できるようなソフトウェアが出てくる土壌が日本にはありません。中島氏の言われる「ダイヤの原石」のようなソフトウェアを作り出すプログラマーが育たない上に、玉石混交の中から「ダイヤの原石」を見いだせる経営者もいないというのが日本の実情です。

 日本のITがアメリカのITに比べてなぜそんなに弱いのかと考えたとき、中島氏の考えは面白く、技術的・産業的なものではなく社会的・文化的な次の2点を原因に挙げておられます。

 まず1つ目は、経営トップの意思決定プロセスです。アメリカ企業のトップが決定を下すとき、極端な言い方をすればそれは「えいやっ」と決める点が日本企業との大きな違いだと指摘されています。日本の場合、とくにサラリーマン経営者が経営する大企業の場合、経営者が独断で意思決定したのではないというエビデンス作りに多大な時間とエネルギーが費やされます。そしてそのエビデンス作りの過程において、責任の所在は曖昧になります。経営トップとして誤った判断を下したケースも、その判断のもとになったデータやエビデンスが誤っていた、誤った材料をもとに誤った判断を下したのだからトップは悪くないといった論調でトップの責任逃れが行なわれるのです。そして、エビデンスを揃えられないような判断 例えばまだ世の中に存在しない、ニーズすらはっきりと見えない新製品に投資することは基本的にできません。結果的に、先行事例があってエビデンスが揃えられるような製品、つまり「Windowsパソコン」や「Android ケータイ」のような、ライバルとの横並び製品ばかり作るようになってしまいます。

 そして2つ目が、プログラマーの立ち位置です。アメリカでは、プログラマー(ソフトウェアエンジニア)は、プロスポーツチームのアスリートのような扱いを受けます。報酬面はもちろん、企業の競争力の源は彼らの生産効率を最大化することだという認識が徹底しています。仕様書や工程管理など、彼らの本業を邪魔する雑用を片付けるためのマネージャーがいて、自分はアスリートというより一流の俳優さんか女優さんの扱いじゃないかと思います。そんなプログラマーの中でもトップクラスの人はいわゆる「天才」と呼んでも過言ではなく、クリエイティビティに溢れている上に時代の流れを読む力もあり、仕様書などに頼らず社会にとって必要なもの・会社に価値をもたらすものをたった一人で作り出してしまうのです。経営者の役割は、天才プログラマーがその力を存分に発揮できる環境を整え、彼らの作り出すプログラムの中から「ダイヤの原石」を見出してそれに乗っかることです。

 残念ながら日本のIT産業は、大手IT企業の傘下に子会社・孫会社という形の系列会社が連なる「ゼネコン」スタイルのビジネスが幅をきかせています。親会社のエンジニアは、比較的高い給料をもらうにも関わらず、最もクリエイティブな仕事であるプログラミングを行ないません。仕様書などという曖昧なものを作って下請けに流すだけの仕事なので、当然ダイヤの原石のようなプログラムを生み出すこともなく、世界でも通用しません。実際にプログラミングを行なう子会社や孫会社のエンジニアはどうかというと、こちらは残念ながら地位が低く劣悪な環境で働かされていたりして、ダイヤの原石のようなプログラムを生み出すことはできません。面白いのは、きちんと理科系の大学を卒業していたりコンピューターサイエンスの教育を受けているのはむしろプログラムを作らない親会社のエンジニアで、実際にプログラムを作る仕事をする子会社・孫会社のエンジニアはそういう専門教育を受けてすらいない人が多いことです。つまり極端な言い方をすれば、米国のプログラムはコンピューターサイエンスの大学院を卒業したトップクラスの人材が作っているのに対して、日本のプログラムは文科系の大学を卒業するか専門学校卒の人が作業として作っているのですから、その差は歴然としています。

 日本のIT企業経営者の大きな誤解は、設計という名の元に「仕様書」を書く仕事が最もクリエイティブで能力が必要な仕事で、プログラミングは単に仕様書をコードに変換するだけの単純作業だという誤解です。これは「仕様書」を書く仕事をする人が、最終的なプログラムコードまで書ける人であるケースには成り立つ場合もあります。その稀なケースは、アドホック実装で最終的なプログラムを書いた人がリバースエンジニアリングの形で「仕様書」を書くというケースです。その仕様書は、意図通りに動くプログラムコードから逆算して書いてあるので、当然もう一度そこからプログラムコードを作り出すことが可能なのです。仕様書からプログラムを作ることができるということは、実は当然のことではありません。この業界に長くいると、どうやってもそこからプログラムを作ることができない仕様書というのも存在します。いやむしろ、その方が多いくらいです。よくソフトウェアエンジニアリングを建築の世界と対比することがありますが、カンナやトンカチを扱えない設計者が書いた図面で建物を立てることは可能ですが、プログラムを書けない人が作った仕様書からプログラムを作ることはできないのです。そうすると、インプットされた仕様書は無視され、無理やり実現可能な方法で実装されていきます。結局こんな風にどんどんあるべき姿からずれてきて、使い物にならないシステムができ上がるというわけです(↓)。

 米国のIT業界のような「ダイヤの原石」のようなプログラムとまで行かなくても、こんな(↑)ガラクタプログラムを量産しないために、少なくともきちんと理科系の大学を出たりコンピューターサイエンスの教育を受けた人がプログラムを書くようにすればいいと思うのです。そのための第一歩は、経営者の方に、プログラムを書ける人だけが仕様書を書くことができる(実装可能な仕様書を書くことができる)、そしてプログラムを書ける人だけがダイヤの原石のようなプログラムを生み出せる可能性があるという事実をよく認識してもらうことではないかと思うのです。元請けの親会社のエンジニアはしっかり教育を受けた人たちなのですから、彼らがもっとプログラミングを行なう環境を整える必要があるのです。そして、プログラムを書ける人の地位が上がれば、この業界に優秀な人材が流れ込んできて、その中からダイヤの原石のようなプログラムを生み出す「天才」も出てくるのではないかと思うのです。

2017年9月3日日曜日

JIKKALARM 心地よく起きられる目覚まし時計

JIKKALARM  心地よく起きられる目覚まし時計 - GUGEN2017:

 今回はネット上で見つけた「コレ欲しい」の紹介です。今年のGUGENコンテストのノミネート作品の1つで、GUGENコンテストというのはピーバンドットコムが主催する電子工作のコンテストです。

 ご紹介したいのは、その名も「JIKKALARM」。この言葉は「実家(JIKKA)」+「目覚まし(ALARM)」の造語で、まるで実家にいるかのように起こしてくれるという画期的な目覚まし時計なのです(↓)。何と言っても起こし方が画期的で、気持ちいい目覚めのために、味噌汁の香りのミストと包丁のトントンというリズムで起こしてくれるという代物です。


 しかも、包丁の音は「お袋モード」と「新妻モード」の2種類が準備されていて、お袋モードの場合はトントントンと安定したリズムを刻みますが、新妻モードの場合はちょっとリズムの崩れた不慣れな様子を再現するという念の入れよう。設定時刻になると、本当に包丁をまな板に打ち付けてトントントンという音を出し、味噌汁の香りをミストを出す電子装置なのです。アラームの止め方も秀逸で、カーテンを開けてJIKKALARMに光をあてると止まるという仕組み。

 実家から離れて暮らす一人暮らしの若い男性、あるいは単身赴任で妻や家族の温もりを感じたい男性にも最適かもしれません。このJIKKALARMはデジタルとアナログの比率が絶妙で、単に味噌汁の香りミストだけでも包丁のトントンだけでもイマイチだったでしょう。この両方があったことで十分なアナログ感を出すことで、デジタル世界に疲れた現代人の心を癒してくれるのでしょう。

 IoTもそうですが、自分はこういうデバイスのキモは、何と言ってもデジタルとアナログの融合だと思います。いや、むしろアナログをやや前のめりにするくらいでちょうどいいと思います。この手のデバイスを企画・開発する人はデジタルに詳しいので、なんでもデジタル化することで付加価値を高めようとしてしまいますが、いかにアナログを取り入れてアナログの部分を強調するかが人の心を捉えるためのキモじゃないかと。

2017年9月1日金曜日

日本人は休むのが下手で、頑張ればうまくいくと思い込み過ぎなのではないか

日本人は休むのが下手で、頑張ればうまくいくと思い込み過ぎなのではないか | 文春オンライン:

 今回は、最近の働き方改革にも通じる、日本人が「頑張り」「努力」といった精神性に依存しやすい体質をしているという話題。こういった話題自体は新しいものでもなく、先の大戦で無駄な順次兵力投入が行なわれ多くの将兵の生命が失われたとか、特攻隊もこの精神性重視の姿勢が顕在化したものだとかいう話はたくさんあります。山本一郎氏による元記事では、高校の野球部で試合に負けた罰として監督やコーチが高校球児に対して100メートルダッシュ100本を強いて倒れた子を出してしまったというニュースを引き合いに出していますが、タイトルの「休むの下手」というより「間違った努力信仰に陥らないようにすべき」という論調で、自分も山本氏のご意見には全面的に賛成です。

 最近は時代背景も手伝って、スポーツの世界の精神論・根性論というのは減ってきましたが、やはり勝利という結果が出ないと「何が悪かったのか」「誰が悪かったのか」という話になりやすいのはどの組織でも同じです。スポーツだったりビジネスだったり、基本的には相手があることですから、試合に敗れた・受注を逃したといった好ましくない状況の原因は自分側にだけある訳ではないはずです。単純に相手が強すぎた、顧客の購買意欲は高くなかった、政治的理由で他社に受注を持って行かれたなど、自分側がいくら努力しても仕方のないケースもたくさんあります。それでも敗戦・失注といった事実があるので、その事実に自分側にも何らかの原因を見つけてそれを改善しようという「反省」の精神が働くのが日本人のマインドなのでしょう。

 90%の原因が相手が強すぎたことにあっても、残り10%で自分側も何かができたはずだと考える「反省」マインドは、本来はとても重要なことです。野球でバッターが10回のうち7回ほどは打ち取られる訳ですが、その時なぜヒットできなかったかを反省しない選手は一流にはなれないでしょう。しかし、これがグループあるいは集団としての「反省」となると、えてして「戦犯探し」になりがちでもあります。そしてその「戦犯」は、立場が弱い人が押し付けられがちです。先の大戦中、陸軍や空軍の大将クラスは作戦失敗の責任も取らず、むしろ現場将校に責任を押し付けがちでした。そんな場合、現場将校が戦うための環境を整える(作戦や兵備、意思決定など)のは基本的に上の階級の仕事ですから、作戦がマズイとか意思決定の遅さなどは槍玉に上がらず、むしろ現場将校の精神が足らなかったなどと、戦犯が現場サイドに押し付けられるケースが起こりがちです。

 さらに原因が現場サイドの精神的な部分にあるという「反省」になってしまうと、「努力」で何とかしろといった無茶な結論におちいりがちです。もちろん努力は大切なことで、努力で栄光を勝ち取ったというストーリーは感動を呼びますが、「努力」は自分の意思で行なうからこそ価値があるのです。組織的な反省の結果として出てくる、現場の精神が足りなかったのだからもっと頑張れという「努力の強要」は最も "悪い" 努力です。組織的に押し付けられた「努力」は、大抵はリーダーの目標設定や環境準備が誤っていたことを隠すための手段に使われるので、押し付けられた努力の方向性が正しいことは少なく、結果的に身を結ぶことも少ないでしょう。

 山本氏も、悪い努力信仰というのは、結果が出ないのは頑張りが足りないからだという、努力すること自体が目的になってしまうことだと述べておられます。そして、努力の方向があるべき目標からずれてしまって、無駄な努力を重ねてただただ疲れるということだと。正しくない努力をしても結果が出ない、結果が出ないからもっと頑張れという話になって、竹槍で米軍の飛行機を落とせないのは努力が足りないからだといった荒唐無稽な話にも繋がるのです。企業組織の場合、間違った努力を強いる組織はまともな人から去っていき、努力することが目的という人だけの集団になり、やがて「チャレンジ」という名の粉飾が起きる組織ができあがるというわけです。

 現場に無駄な努力を強いる組織は、間違った目標設定が諸悪の根源であることを隠そうとする組織ですから、正しい目標設定がされていません。「正しい目標設定」と言いましたが、それは夢を語るのではなく実現可能な目標になっているかということです。例えば「売上何%アップが目標」と言ったとしても、それを実現するための実現手段がブレークダウンされて初めてその目標は現実味を帯びるのです。経営とかマネジメントというのは、トップが示す目標を実現可能なものにブレークダウンすることであって、ブレークダウンなしに努力で何とかしろというのは間違った努力というわけです。

 努力。頑張ること。いずれも日本人が持つ美しいマインドセットですが、正しい方向に努力すること、正しい方向に頑張ることこそが重要です。経営やマネジメントに関わっている方は、単なる夢を語るだけになっていないか、実現可能な正しい目標にまでブレークダウンできているかを確認してほしいものです。頑張っている現場側も、たまには立ち止まって自分の努力は正しい努力だろうかと自問してみるといいかもしれません。