2017年6月30日金曜日

魔法か! スプレーした場所が"タッチデバイス"化する「electric field tomography」

魔法か! スプレーした場所が"タッチデバイス"化する「electric field tomography」 | RBB TODAY:

 今回は面白いテクノロジーのご紹介です。野々下裕子氏の元記事で紹介されている、カーネギーメロン大学のChris Harrison教授が開発した「electric field tomography」技術は、極端に言えば何でもタッチデバイスに変身させることができてしまう魔法の技術です(↓)。


 そのタッチデバイスへの変身のさせ方の簡単さがこの技術のキモです。インテリアやオモチャ、楽器、自動車のハンドルなど、タッチデバイス化したいモノに特殊なスプレーを吹きかけて伝導性の皮膜を作ります。そこに数個の電極を繋ぐことで、皮膜のどこをタッチしたかを検出できるようになるという原理です。どちらかというとスグレモノなのは、スプレーよりもソフトウェア側かもしれません。被膜で覆われた部分のどこをさわったかを正確に感知することができ、タップやスワイプのような操作のちがいも認識できるので、スマホ操作のようなユーザー入力インタフェースを簡単に作ることができるわけです。

 操作とアクションを関連づけるアプリも提供されていて、タップした場所によって異なるソフトウェアを起動させたり、人形の頭や鼻、お腹などの触った場所によって名前が表示される学習ツールのようなことも簡単に実現できそうです。

 皮膜の作り方はスプレーだけでなく、ペンキのように塗ったりアクリル素材に混ぜて3Dプリンターで出力するなどすれば、スタートアップなどで簡単にタッチスクリーンのユーザーインタフェースを試したい時に使うことができそうです。コストが激安なのもウレシく、スプレー液体は0.1平方メートルあたりで50セント未満、電極も市販されているものを使うことができます。Harrison教授のチームは現在、この技術をDIYや趣味のコミュニティに役立つオープンソース製品にすることも検討中だそうで、既存のモノにスプレーを吹きかけて面白いガジェットを作るということが家庭のDIYレベルでできるようになるかもしれませんね。

2017年6月29日木曜日

理不尽な「俺の酒が飲めないのか」…江戸時代の武士は意外な対応

理不尽な「俺の酒が飲めないのか」…江戸時代の武士は意外な対応 - まぐまぐニュース!:

 今回の話題は、お酒の席でのマナーについて。それも特に「俺の酒が飲めないのか」なんてことを言ってくる人の扱いと飲めない人とも飲みの席でうまくやる方法について、 弘中勝氏の記事を元に考えてみようと思います。自分は強くはないものの一応人並みには飲めるので、全然飲めない人の気持ちは分かりませんが、「お酒の強要」のみっともなさは理解しているつもりです。

 元記事の著者である弘中氏ご自身お酒は全く飲めないだけでなく、「俺の酒が飲めないのか」なんてことを言ってくる相手には堂々と「飲めないものは飲めません」と言ってきたのだそうです。弘中氏は飲めないことで困ったことは無いと言われてはいますが、自分の感覚から言えば、「飲みニュケーション」なんて言葉(もう死語かと思いきや、未だにその考え方は社会に深く根付いていると思います)があるように、飲めないと一定以上の関係を築けない「機会損失」はやはりあるのだろうとは思います。

 今回の元記事で自分がなるほどと思ったのは、江戸時代の武士の世界で、飲めない人がいても、うまく飲みの場をおさめる作法についてです。なんとなく武士の世界は厳しくて、お酒ぐらいは飲めるようになれと強要されそうに思いますが、実際はそうではなく、飲めない人にもきちんと配慮がなされる社会なのだそうです。飲めない人は「私は下戸です」と直接言うような野暮なことはしませんが、お酌をされる時、お酌をする人の顔を見るのだそうです。普通はお酌をされると盃のほうに目を下げますので、相手に目を合わせるのは変な気もしますが、実はこれが「私は飲めません」という合図なのです。お酌をする人は、その合図を察してお酒を注いだフリをする程度にします。もちろん周囲の人も「おい、注いでないじゃないか」なんて野暮は言いません。飲めない人は、そうやってお酒を注いだフリをされた盃に口をつけて「飲んだことにする」と言うわけです。なんとも粋じゃないですか。

 「武士は食わねど高楊枝」なんて言葉があったり熱いお風呂に入るのが江戸っ子なんて風潮があったりして、武士の礼法は「やせ我慢」だと思ってきましたが、そうではないのです。実は、武士の礼法とは「慎みと気配り」なのです。元記事で紹介されている例に「正座」の例があります。皆さんも正座をして足が痺れてしまった経験があるんじゃないでしょうか。武士の世界では、足が痺れてもやせ我慢で正座し続けると思いがちですが、本当の礼法はそうではないのです。足が痺れた時は、親指で立ちお尻を持ち上げる座り方をするのが実は作法なのです。もちろんそれを見た人が「正座を崩すんじゃない!」なんて野暮なことは言いません。お尻を上げた座り方も、れっきとした作法なのですから。

 こうやって見ると、武士の礼法は「粋」という言葉に尽きるような気がします。もちろん「粋」の反対は「野暮」で、武士がもっとも嫌うものです。飲めない人に無理に飲ませるような野暮なこと、お尻を上げた座り方をする人に足を崩すなと言うような野暮なことをしてはいけません。現代人の我々も、武士の社会を見習って「粋」でいたいものですね。

ケーブル無しで縦横移動できるエレベーター、高層ビルに初導入へ

【電子版】ケーブル無しで縦横移動できるエレベーター、高層ビルに初導入へ-独ティッセンクルップ(動画あり) | 建設・住宅・生活 ニュース | 日刊工業新聞 電子版:

 あまり話題になっていない気がしますが、実はコレ大発明なんじゃない? 今回は自分がそう思った日刊工業新聞のニュース記事を取り上げさせて頂こうと思います。その大発明とは、ズバリ、エレベーター。

 エレベーターって物心ついたときはもう普通にあったので、それなりに歴史が古いんだろうと思って調べてみると、なんとに紀元前から存在していて、アルキメデスがロープと滑車で操作するエレベーターを開発していたのだそうです。もちろん当時は人力で、奴隷が一生懸命引き上げる仕組みだったのでしょう。19世紀には水圧式、蒸気機関を使ったエレベーターが開発されましたが、長らく「安全性」が問題視されてきました。この問題点を解決する大発明は、1853年のニューヨーク万国博覧会。アメリカのエリシャ・オーチス氏(現在もナンバーワンシェアを持つオーチスエレベーターの創業者)が、逆転止め歯形による落下防止装置を発表しました。この発明以降、エレベーターの落下事故は激減し、世界中に普及していったのだそうです。

 それ以降、振動制御や運行制御など周辺の技術は発展してきましたが、滑車とロープでカゴを吊り下げるという基本的な構造は変わらず、今ではエレベーターは技術的に「枯れた」製品と言ってもいいでしょう(油圧式エレベーターという下から押し上げる方式や、ダブルデッキという2階建てエレベーターもありますが、それほど画期的とは言えない気がします)。そんな長らく革新的技術が生まれてこなかった業界に、上下左右に動くことのできるエレベーターというビッグニュースが飛び込んできたわけです。

 元記事によりますと、独ティッセンクルップが開発した「マルティ(MULTI)」というエレベーターは、そもそもカゴを吊るすロープがなく、壁に取り付けられたガイドに沿ってリニアモーターで動くのだそうです。上から吊るす構造でないがために、縦方向はもとより横方向にも移動することができるのです。この画期的なエレベーターは、ベルリンに建設される高層ビル「イーストサイドタワー・ベルリン」に初めて導入されるそうです。


 動画を見てみると、どうです、なかなか格好いいじゃありませんか。普通のエレベーターは上下方向のシャフトの中を行ったり来たりするだけですが、このマルティが行き来するシャフトは路線のバスの巡回ルートのように縦横に設置されます。しかも地味に凄い点が、同じシャフト内に複数のカゴがあっても良いので、運行制御ソフトが相当に優秀なんじゃないかと思います。乗客は行き先階を指定するだけですから、ある意味ちょっとした自動運転のようなものですからね。

2017年6月28日水曜日

なぜ、財布と家にモノをため込む人ほど貧乏になるのか

なぜ、財布と家にモノをため込む人ほど貧乏になるのか | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online:

 今回の元記事は、ファイナンシャルプランナー・藤川太氏によるものですが、PRESIDENT 2011年5月16日号に掲載された、古い記事です。タイトルになっている、財布と家の整理整頓度がその人がお金を貯められるかどうかと相関しているというのは、なんだか妙に納得性が高い気がして、今更ですが取り上げさせて頂きました。お金持ちになりたい人は、風水や金運など根拠の薄いものから今回のように納得性の高い相関関係まで、「○○な人はお金持ち」という情報に敏感です。かくいう自分もやはりお金持ちにはなりたいので、あわよくば藤川氏の理論を実践して少しでもお金持ちになりたいとことです。

 藤川氏によれば、財布は人とお金との接点の象徴で、お金に対する考え方が表れやすいのだそうです。大富豪と呼ばれるような桁違いの人は別かもしれませんが、一般的な意味でのお金を貯められる人というのは、すなわちお金をきちんと管理できる人ということで、そういう人の財布はお金が順序よく整理整頓されていたりスリムな財布を持ち歩いている人が多いのだそうです。ちなみに自分の財布はこんな(↓)薄型の二つ折りの札入れです。"スリム" というキーワードにおいてはお金持ちになれる要素があるかもしれません。

 逆にお金を貯められない人の財布は、ポケットが多くたくさんのクレジットカードやポイントカード、レシートの類などがいっぱい詰まった、いわゆる “ブタ財布” であることが多いのだとか。

 家にモノをため込んでしまう人がお金持ちになれない理由も、結局は整理整頓や管理ができないからということです。生活にかかるお金の中で、目に見えづらいのに意外と大きいのがモノの「保管コスト」です。収納部屋が広くていいなんて喜んでいる人は、本来余計なモノを買い込まなければ必要のないスペースに無駄なお金を費やしているわけです。モノがいっぱいで家に入りきらないので、外に貸倉庫を借りて家がスッキリしたなんて言っている人は、まさに貧乏街道まっしぐらというわけです。

 最近流行のミニマリストではありませんが、お金を貯められる人というのは財布の中も家の中もきちんと管理して、必要なものを必要な分だけ持つシンプルライフを送っている人が多いようです。残念ながら元記事の中で数字的な根拠は示されていませんが、きちんと管理する能力の高い人はお金の管理もきちんとしていて、結果的にお金もきちんと貯められるというのは、なんだか納得性の高いロジックのような気がします。お金持ちを目指して、まずは財布の中の整理と家の片付けから始めてみようかなと思います。

2017年6月27日火曜日

独「ゼロ」ユーロ紙幣が発行

独「ゼロ」ユーロ紙幣が発行【写真】:

 なんとユーロ紙幣には、ゼロユーロ札というのがあるのだそうです(↓)。と言ってもレプリカとかではなく、ヨーロッパ中央銀行が発行を許可したれっきとした本物のお金です。ホログラフィなどの偽造防止策もしっかり施されています。



 今回の元記事では、ドイツ政府がゼロユーロ札を発行したというニュースとして伝えていますが、ネット上を見てみるとどうやらフランスでは以前からあったようです。お堅いイメージのドイツでこんなジョークのような政策がと驚きましたが、フランスが先と聞いてなんだか納得。もちろんお金としての価値はゼロなわけで、観光地でのお土産物として売られているのだとか。価値がゼロの紙幣だからタダというわけではありません。ゼロユーロ札1枚、2ユーロだそうです。ヨーロッパ旅行の際にはお土産に1枚いかが?

2017年6月26日月曜日

[Java] アクセッサのベストプラクティス

 今回は久しぶりにプログラムそのもののお話なのですが、「基本のキ」のような内容ながらも最近ちょっと気になっていた、Javaのアクセッサの話題を取り上げようかと思います。「アクセッサ」ってそもそもなんでしたっけと言う話ですが、例えば名前と年齢をフィールドにもつPerson1というクラスを定義するという簡単な例から始めましょう。もっとも単純に考えれば、こんな風に(↓)2つのフィールドname, ageを持つよう定義すれば良いでしょう。

public class Person1 {
 // フィールド
 public String name;
 public int age;
}

 しかし、伝統的にこのPerson1というクラスの定義方法は「よくない」とされてきました。それは、name, ageというフィールドのpublicアクセスを許していることで、オブジェクト指向の「カプセル化(encapsulation)」という原則を破っていて、よくないのだとされてきたのです。Person1のようなクラス定義がされてしまうと、このクラスを利用する人は次のようなコードを書いてしまうかも知れません。

Person1 person1 = new Person1();
person1.name = "山ちゃん";
person1.age = -40; // 誤って負の年齢にしてしまった!

 まさか年齢を負の値に設定する間違いをするとは考えづらいところですが、こういう誤った使い方ができてしまうというのがそもそもよくないと。そこで、次のPerson2のようにフィールドはprivateアクセスとして利用者から直接触れないようにし、利用者がこれらのフィールドを使用するときはアクセッサーと呼ばれるメソッド(取得用のgetXxx()はゲッター、設定用のsetXxx()はセッターと呼ばれ、2つを合わせてアクセッサーと呼びます)を使用させるようにするというのが「カプセル化」の言っていることです(↓)。このルールを守ることで、堅牢性と拡張性を持たせることができるというように説明されます。

public class Person2 {
 // フィールド
 private String name;
 private int age;

 // アクセッサ
 public String getName(){
  return this.name;
 }
 public void setName(String name) {
  this.name = name;
 }
 public int getAge() {
  return this.age;
 }
 public void setAge(int age) {
  if(age<0) throw new IllegalArgumentException("age("+age+")<0");
  this.age = age;
 }
}

 確かにこのPerson2を使えば、フィールドに誤った値(クラスを作った人が意図しない値)を設定しようとすれば例外スローし、意図しない値のまま使用されることはありません。他にも、フィールドは本名とニックネームをバラバラに定義するよう変更して、getName()が状況に合わせて本名を返したりニックネームを返したりというように改変することも将来的に対応しやすいかも知れません。

Person2 person2 = new Person2();
person2.setName("山ちゃん");
person2.setAge(-40); // 例外IllegalArgumentException発生!

 しかし、そもそもの話ですよ。1つのフィールドにつきゲッターとセッターの2つのメソッドを定義していけば、フィールドの数が増えたとき、クラスの定義はあまり本質的でないゲッターとセッターばかりがたくさんあることになります。そうすると、プログラマーが注意して読まなければならない本質的なメソッドがアクセッサの中に埋もれてしまい、プログラムの見通しが非常に悪くなってしまいます。アクセッサというのは、さほど重要でないことが多いのに場所を取る厄介な存在です。

 この問題に対して、Javaより新しい言語では面白いアプローチをしています。例えばC#です。Javaのマネと揶揄されたMictrosoftのこの言語は、さすがに後発だけあってJavaのマズい点をしっかり改善してきています。C#で同じようなPerson3を定義すると、このように(↓)なります。

public class Person3
{
 // フィールド
 private int age;

 // プロパティ
 public string Name
 {
  get;
  set;
 }
 public string Age
 {
  get { return this.age; }
  set
  {
   if(value<0) throw new ArgumentException("Age("+value+")<0");
   this.age = value;
  }
 }
}

 アクセッサーはプロパティという概念になり、nameのように単純にフィールドの値を返したり代入したりするだけの場合はフィールドの定義さえも省略することができます。C#の流儀によれば、このクラスの利用者は次のように、あたかも代入文であるかのようにプロパティに値を設定することができます。「person2.Age=-40;」は単なる代入のように見えますが、実はC#が裏で上手くやっていてAgeのsetの処理(実質的にはメソッドのようなもの)が呼び出されているため、値チェックに引っかかって例外が発生するわけです。

Person3 person3 = new Person3();
person2.Name = "山ちゃん";
person2.Age = -40 // 例外ArgumentException発生!

 もっと潔いアプローチをしている言語もあります。Javaと同時期に出てきて名前も紛らわしいJavaScript、それに最近ニューラルネットワークや機械学習の分野で盛んに使用されているPythonなどは、思い切ってカプセル化とかアクセッサーという概念をやめています。つまり、最初に「よくない」例として示したPerson1のような定義の仕方をするわけです。JavaScriptもPythonもJavaやC#のような本格的なオブジェクト指向言語ではなく、とっつきやすさをウリにしたいスクリプト言語のため、カプセル化やアクセッサーのような面倒で本質的でないコードが増えることを避けたのかも知れません。

 さて元に戻ってJavaなのですが、やはり本格的オブジェクト指向言語のJavaとしては、今さらカプセル化・アクセッサーを取りやめるわけにも行きません。アクセッサーはあまりプログラムの本質でないと書きましたが、どうせ書かなければならないなら、せめてもう少し工夫してみませんかというプラクティスが一部のJavaプログラマーの間で行われています。それは、アクセッサーの中でもセッターに着目して、次のPerson4のようにするのです。

public class Person4 {
 // フィールド
 private String name;
 private int age;

 // アクセッサ
 public String getName(){
  return this.name;
 }
 public Person4 setName(String name) {
  this.name = name;
  return this;
 }
 public int getAge() {
  return this.age;
 }
 public Person4 setAge(int age) {
  if(age<0) throw new IllegalArgumentException("age("+age+")<0");
  this.age = age;
  return this;
 }
}

 セッターをこういう書き方(↑)にしてthisを戻すことで、セッターを使ってフィールドに値を設定するとき、次のように数珠繋ぎに繋げて書くことができます。

Person4 person4 = new Person4().setName("山ちゃん").setAge(42);

 今回の例では2つしかフィールドがないので、1行ずつ書いてもさほど面倒ではありませんが、データベースから取得した情報を格納するためのエンティティクラスの場合などフィールドが10以上ある場合もザラです。10行以上にわたって1つずつのフィールドにセットするのもいいですが、重要でないコードが多くの行を取るよりも、1行の中で数珠繋ぎにセッターを繋げることでコード量を減らした方がいいと思いませんか。

 実はこういうセッターの書き方については賛否両論あるようで、この書き方の反対派は、いわゆるJavaBean形式(Person2のような形式)を前提とするライブラリやフレームワークが上手く動かない可能性があると言っています。しかし自分の経験上、最近のライブラリやフレームワークは、セッターがthisを戻す書き方をしても問題が発生したことはありません。自分がよくやる、オブジェクトをJSON(JavaScript Object Notation)形式の文字列に変換して他のプログラム(例えばJavaScriptやC#など)とやり取りするときも、セッターがthisを戻す書き方でなんら問題が出たことはありません。もちろん、Person4のオブジェクトをJSON形式の文字列にすると、セッターがthisを返すなんて情報は失われ、こんな風に(↓)Person2と区別がつきません(この文字列をPerson2のオブジェクトに戻すこともできます)。

{
 name : "山ちゃん",
 age : 42
}

 もちろんコンストラクタで設定すべきとか、フィールドが多い時はビルダーパターンで設定すべきといった意見もあるでしょう。しかし、特にJSONとの相性やデータベースから取得したデータを格納するというシチュエーションの場合、セッターがthisを戻すという "ちょっとした" 工夫はとても便利でプログラムを読みやすくしてくれます。実は自分はこの書き方を愛用しているのですが、この書き方を初めて知ったという方、知ってはいたけどJavaBeanの形式を壊すのをためらわれていた方、一度積極的に使ってみてはいかがでしょう。プログラムがとても見やすくなりますよ。

2017年6月25日日曜日

アリとキリギリスの物語を読み込むと「人の本質は変わらない」という、残酷な真実がみえてくる

アリとキリギリスの物語を読み込むと「人の本質は変わらない」という、残酷な真実がみえてくる | Books&Apps:

 今回は高須賀氏の記事を元に、昔の人は「三つ子の魂百まで」と上手いこと言ったもんだという話題です。日本のこのことわざは、3歳ごろまでに受けた教育によって形成された性質・性格は、100歳になっても(つまり大人になってもずっと)根底は変わらないという意味で、欧米でも「The child is father of the man.(子供は大人の父である)」という同じような意味の格言があるそうです。

 まずタイトルにもなっているイソップ寓話、「アリとキリギリス」のお話はご存知でしょうか。実は元のお話は「アリとセミ」だったのだそうですが、イギリスにセミがいないのでキリギリスに置き換えられたのだそうです。日本にはセミがいるので、むしろキリギリスよりもセミの方がわかりやすいかもしれません。夏の間、アリたちは一生懸命働いて冬の食料を蓄えますが、キリギリス(セミ)はバイオリンを弾き歌を歌って過ごします。やがて冬が来たとき、キリギリス(セミ)は食べ物を探しても見つからず、アリたちに食べ物を分けてもらえないかとお願いするも、「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだい?」と拒否され、キリギリスは餓死してしまうというお話です。最後のくだりが残酷だと、アリがキリギリス(セミ)に食べ物を分けてあげると改変されたお話もあります。

 自分は子供の頃このお話を聞いてコツコツと頑張るアリのようになろうと思ったものですが、実のところ、後で困るのが分かっているのになぜキリギリスのような生き方ができるんだろうかとも思っていました。大人になってからは、お話の前提が自分たちの世界とは相当違っていることが理解できます。つまり、現代は異様なまでに人が死なないので、自分たちは将来に備えた蓄積や投資のリターンが得られる確率が非常に高い世界を前提と考えてしまいます。しかし物語の前提は大昔、明日の命があるかどうかわからない世界で、将来に向けた蓄積は無駄になる可能性が高かったのでしょう。つまり時代とともに「得する」生き方は変わってきていて、人が死にやすかった昔の時代はキリギリス(セミ)型の性格が人生の上でも得しやすく、非常に死ににくい現代ではアリ型の性格が人生の上で成功を収めやすい性格だというようになったと思います。

 さて元記事では、現代版「アリとキリギリス」のテストとして「マシュマロ・テスト」という児童心理学のテストが紹介されています。実験者は子供の目の前にマシュマロを置き、これを食べるのを15分間我慢できたらもう1個あげると話して席を外します。15分間我慢してもう1個マシュマロをもらうのが「アリ型」、我慢できずに食べてしまうのが「キリギリス型」というわけです。自分の感覚だとほとんどの子が15分間我慢してもう1個のマシュマロを手にしそうに思いますが、実際の実験ではアリ型の性格を示して我慢できたのは3分の1以下だったのだそうです。面白いのは、その後このテストに参加した子供たちを追跡調査したところ、15分間待ったアリ型の子供はすぐマシュマロを食べてしまったキリギリス型の子供より、大学入試の成績がよく社会的に成功する傾向があったのだそうです。このテストから科学者が導き出した結論は、「幼少期に自制心があるかどうかの傾向は大人になっても変わることがなく、自制心が高い人ほど物事に熱心に取り組む傾向がある。そういったタイプの人は、社会的に成功する確率が高い」というものでした。以前この山ちゃんウェブログでも、自制心の強い子供は大人になっても成功して高学歴・高所得になりやすいという話題を取り上げたことがあったのを思い出します。

 元記事で紹介されているもう一つの例が、宝くじを買う人・買わない人です。宝籤の収益期待値は50%以下、1,000円分のくじを買ってもリターンとしては500円以下しか得られないのだそうで、宝くじは「愚か者の税金」と呼ばれているのだそうです。宝くじの売上から諸経費や利益・税金を差し引いた一部が当たりくじの賞金になるのですから、仕組みを考えてみれば当たり前なのですが、愚かな人はそこに考えが至らず一攫千金を夢見て宝くじを買うのだそうです。

 この2つの話題をよく考えてみると、実は宝くじの収益期待値に考えが至るとか至らないとか、マシュマロを我慢する自制心があるかないかとか、そういう話ではないんだと気づきます。つまり、未来に対する想像力の働く範囲が人によって相当に違うのではないだろうかと。我慢できずにマシュマロを食べてしまう人・宝くじを買う人、つまりはキリギリス型の人は、想像力の及ぶ範囲が未来の中でも比較的近いところに偏っているのです。なので、すぐにマシュマロを食べる幸せや宝くじの当たり発表で喜ぶ自分を想像することはできますが、15分待ってマシュマロをもう1個もらえる光景や宝くじを買っても結果的に儲けられない光景を想像するのが苦手、というかそういう未来は霞んでいるのだと思うのです。もう一方の、マシュマロを我慢してもう1個もらう人・宝くじを買わない人、つまりアリ型の人は想像力の及ぶ範囲が近い未来よりも遠い未来にあるのではないかと思うのです。アリ型の人は遠い未来の自分を思い浮かべるのが得意なので、将来に備えてしっかり勉強したり貯蓄したりするという「準備」ができるのです。

 しかし前にも述べた通り、人間が死ににくい現代でこそ、遠い未来まで想像力が及ぶアリ型の人が有利な人生を送る傾向がありますが、歴史上はキリギリス型の人の方がお得だった時代の方が長かったと思います。そうでなければ、現代のマシュマロ・テストでキリギリス型の方が3分の2以上を占めることに合理的な説明がつきません。長い間キリギリス型が有利だったのに、ここ最近急にアリ型が有利な時代になったと見るのが正しいと思います。

 現代は、キリギリス型の人は残念ながら不利益を被る可能性が高い時代です。パチンコやギャンブル、ソシャゲーのガチャなどにハマり、宝くじを好んで買っている人達に対して、その行為が非合理だと言ったとしても、キリギリス型の人はその行動をやめられないでしょう。キリギリス型の人が想像力の及ぶ近い範囲の未来では、その行為が幸福をもたらす行為だからです。高須賀氏はこれは仕方のないことだ、例えば小さい頃からマシュマロを我慢する練習をしても、キリギリス型はあくまでキリギリス型であってアリ型にはなれないと突き放しておられます。

 しかし自分もそうですが、実際に子供を持つ親の立場では、子供にはできるだけ幸せな人生を送って欲しいと切に願うものです。アリ型の親にキリギリス型の子供の組み合わせの場合、子供の遠い将来を想像できる親は、明らかに不利益を被るキリギリス型の子供の性格を矯正したいと考えるでしょう。その時、「三つ子の魂百まで」なのだから性格を変えることはできないとは諦められないと思います。しかし、一方で「氏より育ち」「朱に交われば朱く(あかく)なる」「孟母三遷」とか「男子三日会わざれば刮目して待つべし」といった言葉もあります。諦めずに、子供が小さいうちに性格を矯正する補助をしてあげたいものですね。

2017年6月23日金曜日

人工知能と黒魔術

「人工知能と黒魔術」(視点・論点) | 視点・論点 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス:

 この山ちゃんウェブログでは何度も人工知能(AI)の話題を取り上げてきましたが、その多くはAIが人間の仕事を奪ってしまうとか、2045年とも言われるシンギュラリティ(技術的特異点。AIが人間の知能の総和を上回るとき)への危機感の話でした。それに対して、今回取り上げるのは「人工知能(AI)は黒魔術だ」という話題で、これまでより一層おとぎ話のような未来像の話題かと思いきや、元記事は将棋AIソフトPonanzaの開発者として有名な愛知学院大学の山本一成 特任准教授によるもので、NHK公式サイトという権威あるサイトの話題です。

 山本氏による元記事を読ませて頂いて、自分は真っ先に、「黒魔術」という言い方はいかにもプログラマーの言いそうな表現だなあと思いました。プログラマーという人種は、普段向き合っているのが論理の集合なので、その反動からか、論理とかけ離れた表現やひねくれた表現をすることがよくあります。自分が思うにもっとも有名なのは「おまじない」という表現で、C言語における #include <stdio.h> のように、プログラム上必要な記述ですが初心者に意味を説明するのが難しいコードを指して「おまじないを唱える」という言い方をします。今回の「黒魔術」は、「おまじない」と同じセンスを感じませんか。人工知能の世界において「黒魔術」とは、例えばAIプログラムを改造して精度向上が見られたとしても、なぜ精度が上がったのか理論や理屈では理解できないとき、その技術を指して「黒魔術」と言うのです。AIという科学の最前線では、人間には理解できない「黒魔術」とも言うべき技術がどんどん開発されているのです。

 AIの黒魔術として有名な技術の一つに、「ドロップアウト」という技術があります。現在のAIの主流である「ディープラーニング」は従来のニューラルネットワークを多層に重ねたものです。図↓の (a) のように前の層から次の層へは、各層のニューロンを全て信号が伝達していくというモデルです。このとき実は困ったことが起きるのです。その困ったことというのが「過学習・過剰適合(Overtraining, Overfitting)」と呼ばれる事象で、訓練用データを学習しすぎるあまり訓練用データに対する精度は極めて高いのに、未知のデータ(テストデータ)に対しての精度が下がってしまうという事象です。AIの意義は未知のデータに対して正しい答えを出すことに価値があるのですから、答えがわかっている訓練用データに対して精度が上がっても意味がありません。以前にきゅうりの仕分けをするAIをご紹介した時の例では、最低ランクと学習させたきゅうりの多くにたまたま頂点から3センチのところに棘がある特徴があり、棘の位置とランクの低さという無関係な特徴を結びつけて学習してしまい、かえって精度が下がったというものでした。

 この過学習・過剰適合を抑制するための技術として、「ドロップアウト(Dropout)」という技術が有名で、ディープラーニングを一躍AIの主役に持ち上げたのはこの技術だとも言われています。ドロップアウトとは、図↓(b) のようにニューラルネットワークのニューロンをところどころ消してしまうのです。こんな歯抜けのネットワークで訓練用データを学習させ、未知のテストデータに対する答えを出すときは、また (a) のように全てのニューロンをつなぎ、ただしニューロンを消された割合を掛けることで、結果的に何故か過学習・過剰適合が抑制され未知のテストデータに対して高い精度を示すようになったのです。このニューロンを消す割合は完全に勘と経験の世界で、ある対象に対しては0.5くらいが良くても対象が変われば0.3くらいがよかったりして、何故その割合が精度が上がるのかはこの技術を開発した人でさえも説明することはできません。

 ニューラルネットワークには、他にも学習率とかニューロン間の重みに初期分布など、多くのパラメータ(訓練データを使った学習の中で調整していく重みのようなパラメータと区別するために「ハイパーパラメータ」と呼ばれます)があり、そのパラメータをどう決めるかというのがまさに「黒魔術」の世界なのです。実際のハイパーパラメータの決め方は、勘と経験だったり、トライアンドエラーだったりして、何故その値がいいのかを説明することは誰にもできません。Ponanzaの開発者である山本氏ですら、Ponanzaが何故強いのかを説明することができないのだそうです。

 我々がAIに対してどこか不安を感じるのは、まさにこの部分じゃないでしょうか。通常私たちの触れる科学は「物事を分解して細部の構造を理解すれば、全体を理解することができる」という考え方をします。プログラムの世界などはその最たるもので、サブルーチンという部品に分解して簡単な処理を実装し、最後にサブルーチンを組合わせることで複雑なプログラムも可能にします。こういった考え方を「還元主義」と言いますが、例えば時計を完全に理解するためには、まずすべての部品を分解して歯車やゼンマイなどの個々の部品の仕組みを理解します。そして、その部品を組み上げていくと時計というもの全体が理解できるというわけです。

 ところがAIに関しては、この「還元主義」が全く成り立たないのです。山本氏は自らが作り上げたPonanzaというプログラムの、個々の部品(サブルーチン)を誰よりも詳しく理解していますが、それでもPonanzaがなぜ名人に勝てるほど将棋が強いのかを説明できないのです。でもよく考えると、作った当人にさえ説明できない知能を示すからこそAIは強力なのだとも言えるでしょう。Ponanzaが山本氏が理解できる手しか打てない(なぜそういう手を打つのかを山本氏が説明できる)のであれば、生みの親である山本氏の将棋の腕前を超えることはできないことになるからです。生みの親・師匠の能力を超えていくからこそ、AIは時に暴力的とも言えるほどの知能を示すことができるのです。

 地球上には、例えば地球温暖化・戦争・病気・貧困など、人間の知能だけでは解決できそうもない問題が溢れています。AIがそういった問題を解決してくれるかもしれないという期待は、AIがその生みの親や師匠の能力をはるかに超えていくからこそ生まれる期待です。逆に言えば、AIが生みの親でさえコントロール不能だというのは、不気味なことこの上ありません。コントロール不能なAIは、スカイネットを生み出してしまうかもしれないのですから。山本氏は、ネガティブな要素をうまくコントロールすればAIは人類に大きなメリットをもたらすと楽観論を示されていますが、AI開発は「神」をも生み出しかねず、その神は「破壊神」かもしれません。GoogleはAIに非常停止ボタンを実装したという記事を書いたことがありますが、AIの開発は慎重の上にも慎重を気して頂きたいものですね。

2017年6月22日木曜日

勉強するということを表した画像に考えさせられる

勉強するということを表した画像に考えさせられる|@Heaaart - アットハート:

 今回の元記事はずいぶん前、2年ほども前の記事なのですが、「勉強する」とはどういうことなのかを表した秀逸な画像を紹介する記事があったので、ご紹介したいと思います。この元記事もさらに元を正せば@Hetare_Takumuさんのツイートだそうで、自分は知らなかったのですが、当時ネット上で話題になった画像なんだそうです。

 「勉強する」とはどういうことかを表した、その画像がこちら(↓)。能天気にお花畑を眺める人に対し、勉強して知識を持つ人にだけ見える世界がある。その世界は決してバラ色なんかじゃなく、世界的な環境破壊や国と国の諍い・経済格差・食料問題など様々な問題が見えているのかもしれません。

 ただこの画像だけでは、むしろ勉強なんかせずに麗らかなお花畑を楽しむ方がいいのではないかと思ったりしますが、実はこの画像には続きがあって、それがこちらです(↓)。

 勉強しない人が見ていたお花畑の世界、そして勉強した人だけに見える様々な問題を抱えて荒廃した世界、それだけで終わりではなかったのです。さらにさらに勉強を重ねた人だけに見えるのが、さらにその上の世界。それは、この世界が抱える様々な問題を解決する明るい未来かも知れませんし、悟りを開いた人に見える静かな水面のような世界を表しているのかも知れません。もう一つ、この画像が意図してか意図せずか分かりませんが、高く積み上げられた本は今にも崩れそうです。まるで知識だけに頼って見た未来は、ちょっとしたアクシデントでもろくも崩れてしまうことを示唆しているようにも見えます。

 人は、「勉強する」ことに理由を求める時期があると思います。例えば、高校受験や大学受験の勉強に苦しむときなど、なぜ勉強しなければならないのか、日常生活に困らない程度の知識があれば十分じゃないかという問いに悩まされる時があるでしょう。以前、学歴によって生涯賃金に大きな差があるという記事の中で、刹那的ですがいい大学を出れば生涯賃金が2億円も違うという事実も勉強の理由として説得力を持つと書きました。

 今回ご紹介した画像は、そんな刹那的で反面教師的な教えではなく、「勉強することで見える世界が違う」ということを的確に表現しています。40歳を超えて人生の半ばくらいまで経験した自分でも、この画像が示す「世界が変わる」というのはかなり説得力を感じます。生きている世界が違うとでも言いましょうか。

 同じようなことを、自分はよく「次元が違う」という表現をします。勉強している人としていない人、頭のいい人とイマイチな人は、「次元」が違うのだと。

 例えば現実世界にはいませんが、一次元の世界に生きている動物がいたとしましょう。この動物は、直線上を行ったり来たりすることしかできません。その一次元動物にとっては、例えばアリのように二次元の世界に生きる動物の存在を想像できません。概念すら無いと言う方が正しいでしょう。平面上を動くことができるアリが偶然にも一次元動物の移動可能な直線上に現れることがあるかも知れませんが、二次元動物のアリにとって一次元動物は認識可能ですが逆は普通は不可能というわけです。我々は縦・横・高さという三次元の空間に生きています(時間という概念を含めた四次元と言う人もいますが、ここはある程度自由に移動可能な軸のみを考えます。時間は一方向で、しかも自由には行き来できませんからね)。三次元動物の我々にとって、アリのような二次元動物も一次元動物も、そしてもちろん他の三次元動物もリアル世界における存在として認識できます。

 しかし、もし我々の知らない4つ目の次元があって、その四次元の世界に生きる動物がいたとしたら、その動物はたまたま三次元の我々の前に姿を表すことがあるかも知れませんが、我々からすればそんな四次元動物の存在は普段は認識することができません。四次元動物がどんな姿をしていて、どんな世界が見えているのかは我々には想像がつかないというわけです。我々がごく稀に宇宙人の痕跡を見つけるにもかかわらず宇宙人に正面切って出会わないのは、宇宙人が実は四次元以上の次元に住んでいるからだという説もあって、それはそれで説得力があると思いますが、その話はまた今度に譲りましょう。

 つまり言いたいことは、勉強している人としていない人、その違いは住んでいる次元の違いにもなぞらえるほど大きな溝があって、勉強している人の世界から勉強していない人の世界は認識可能ですが、その逆は不可能です。自分のレベルと同等かそれ以下のレベルは認識可能なわけですから、勉強すればするほど、頭が良くなればなるほど、見える世界が広がるということが言えるでしょう。一方で我々に与えられた命は等しいので、同じ時間の命を生きるのであれば、勉強して多くの世界が見える方が濃い人生を送ることができるのではないかと思うのです。

2017年6月21日水曜日

ついにメガバンクに「大失職時代」がやってきた!

ついにメガバンクに「大失職時代」がやってきた!(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4):

 山ちゃんウェブログでは、人工知能(AI)が人間の仕事を奪っていくという趣旨の話題を何度も取り上げてきました。今回もそのうちの1つですが、元記事は週刊現代によるものです。歴史ある大衆紙ですが、そういうところでもAIによって社会の仕組みがごっそり変わってしまう可能性を示唆しているのが面白いところです。

 取り上げられているのは、いわゆる「銀行員」という仕事。2013年「やられたらやり返す、倍返しだ!!」なんてキャッチコピーで一世を風靡したドラマ「半沢直樹」の舞台が大手メガバンクだったことは記憶に新しいですが、その中で銀行員という仕事は中小企業の社長よりもはるかに上位に描かれています。銀行からの融資に頼る中小企業の社長を一番下に、それを審査する銀行員がその上に位置し、その銀行員も自分の銀行に帰ればヒエラルキーの下の方に位置するという構図でした。ドラマの中だけでなく一般的にも、メガバンクの銀行員といえば、いわゆる頭脳派で高給取り、銀縁メガネに冷静な性格というようなイメージではないでしょうか。彼らは紛れもなく、社会の上層に位置するエリートです。

 そしてAIが奪っていく仕事は、まさにそんな「頭脳派エリート」の仕事です。従来より、肉体系ブルーカラーの仕事はその多くを機械に奪われてきました。もっとも体力的にツラい仕事は、機械に奪われるというより「肩代わり」させてきたという方が正しいかもしれません。そして銀行の事務作業もそうですが、ホワイトカラーの仕事の中で比較的単純な作業については、IT化の流れの中でコンピューターが肩代わりしてきました。日本ではいまだ重要な事務を紙の書類で行なうことが多いので、元記事にあるように人間の出番もまだまだあるのが現実ですが、米国などを見てみるとペーパーレスは確実に進んでいて、人間の出る幕はどんどん少なくなっています。そして、ホワイトカラーの中でも上位に位置する「頭脳派エリート」の仕事、具体的には今回話題に上がっている銀行員だけでなくトレーダーや医者・弁護士や裁判官など、頭がいいことをウリに社会のヒエラルキーの上位にいた人たちの仕事を奪っていくのがAIです。

 大手メガバンクの三井住友銀行は、今後3年間の間にITやAIをもっと取り入れて作業の効率化をはかり、約4000人を新たな事業部門に移すと言います。銀行はもはや以前のような「殿様商売」としていられる状況ではなくなり、なりふり構わずコスト削減に向かっているのです。従来の、顧客から預金を集め運用することで儲けるビジネスモデルは、経済の中でそうそう有望な投資先がなくなってきています。積み上がった預金で国債を購入して金利を受け取る利ザヤ商売も、日本銀行によるマイナス金利政策によって旨味は多くありません。そこで、投資信託や保険商品の手数料ビジネスや不動産ローン、カードローンといったところを収益の核にしようとしています。経営コンサルタントの加谷珪一氏によれば、銀行はジリ貧で、できることと言えばコスト削減しかありません。「銀行員」という頭脳派エリートに払っていた、高い給料を削減するためのAI導入と言うわけです。元記事では、みずほ銀行の管理職(40代)の言葉として、次のような談話が紹介されています。

単純な業務に関しては人間よりもAIのほうが正確で速いに決まっている。そうなると近い将来、これまでの銀行員が行ってきた業務は大きく様変わりするでしょう。
今は個人の資産運用の相談業務には行員が対応していますが、すぐにロボットが対応するようになるはずです。企業の有価証券報告書を分析するアナリストの仕事も必要なくなるかもしれません。また、資産運用を行うディーラーもいなくなり、AIが売買するようになるかもしれません。
最近は店舗でも、ATMコーナーに行列ができるほど混雑することはなくなりました。現金は銀行でなくともコンビニで引き出すことができるし、そもそもスマホなどで決済するケースも増えているからでしょう。
銀行の店舗は街の中心地にありますが、多くの人が現金を使わなくなれば、店舗は要らなくなりますし、何台ものATMを置いておく必要もなくなる。いずれ支店は半減してしまうのではないか。私自身も近い将来、どんな仕事をしているのか、想像もつきません。

 融資の審査や書類の作成を行なってきた人。その書類にハンコを押すだけの中間管理職。これまでの銀行業務の「中心」にいた人材から用済みになります。確かに銀行特有の煩雑で複雑な書類作りのノウハウなどがあるのでしょうが、それもルールが変わったら用済みになるノウハウです。ルールが変わっても新しいルールのもとで力を発揮できる人材、そういう人材だけが生き残っていく世の中になるのかもしれません。

2017年6月20日火曜日

エンジニアが「見捨てたくなる」発注者の特徴とは?

エンジニアが「見捨てたくなる」発注者の特徴とは? | システムの「外注」成功の鉄則 | ダイヤモンド・オンライン:

 今回の元記事は、細川義洋氏が自らの著書「システムを「外注」するときに読む本」を宣伝したものですが、自分のようなメーカー系ソフトウェア開発でも多かれ少なかれそういうところがあると思ったので、ITシステムの発注者に関して考えてみようと思います。細川氏のタイトルには「エンジニアが発注者を見捨てる」という刺激的な言葉が踊っていますが、お金をもらってシステムを作り上げるプロであるべきITベンダーのエンジニアが、「発注者=お客様」を見捨てるなんてそんな不遜なことが本当にあるのでしょうか。

 この問いに細川氏は明示的には答えていませんが、タイトルからも文脈からは明らかにYesというご意見、少しフィールドは違いますがソフトウェア開発という立場にいる自分も、おそらくこれはYesなのだろうと思います。「お客様を見捨てる」というほどではなくても、受注側も人間ですので「本気を出していない」というプロジェクトはおそらくあるだろうと思います。

 プロジェクトに本気を出していなくても、そこはITのプロですから、露骨でない程度・契約上の違反にならない程度に「手を抜く」ということになります。そうして「手を抜いて」作られたシステムは、発注者側にとって「負の遺産」になってしまいます。手を抜かれたプロジェクトに共通するのは、要件定義ではユーザーや業務のことを表面的にしか捉えず、基本設計や詳細設計もやっつけ仕事でどこかのプロジェクトの雛形を使い回したもの、実装に至ってはほとんど二次外注に丸投げで動けばいいやというソースコード。いい加減な設計・実装は試験工程で問題が出ますが、出る杭を打つ方式でもって何とか不具合を抑え込む。出来上がったシステムは、ある不具合を直せば別のところに不具合が出てしまう絶妙なバランスの上で何とか動いているシステムで、おいそれと機能追加や不具合修正もできません。運用工程になって顧客側ユーザー部門から不満が噴出しても、発注者のIT部門担当者はもう後の祭り。ITベンダーを問い詰めても、「契約は履行しました」「不具合の修正やユーザーのための機能追加・修正は別途お見積もりです」とそっけない対応。改善や機能追加には法外な見積もり金額が提示される... 結局、何千万・何億と掛けて構築したITシステムは使い物にならず、ドブに捨てたも同然だったり、丸々作り直しなんて笑えない話もちらほら。

 世の中には、そんな不幸なITプロジェクトもたくさんあると聞きます。もちろん、仕事としてITシステム構築を請け負っているベンダー側にも責任があるでしょうが、ITベンダーのエンジニアだけを責めても仕方ありません。ITシステムの構築は、単なる買い物ではないのです。どちらかというと家を建てる時の設計・工事発注に近いものがあります。ITシステム発注者の立場にある方は、あなた自身の自宅を建築する設計付き工事だと思ってみてください。お金を出す側だからと言って、ご自宅の設計・工事を他人事のように「まぁ上手くやってくれ」なんて他人事の態度でいられるでしょうか(よほどのお金持ちはそうかもしれませんが、自分を含め多くの人はそうは行きません)。お風呂にはこだわりたいとか、スペースを有効活用した間取りにしたいとか、子供が遊んでいるところをキッチンから目が届くようにしたいとか、ベランダでバーベキューするのが夢だったとか、太陽光発電でエコに貢献したいとか、...とにかく自分の家であれば、「思い」を設計事務所や工事業者にたくさんぶつけられると思うんです。もちろんその夢を全て予算の中で達成するのは難しいかもしれませんが、そこで設計・工事業者との交渉をたくさん行なうことになります。そのときの発注者の強い「思い」こそが、設計・工事業者側を本気にさせるのです。

 それなんです。ITベンダーのエンジニアは、これから作り上げるITシステムに「思い」をたくさんぶつけてくれる発注者に本気を出すのです。発注担当者の「思い」が無くどこか他人事という態度は、今回のシステムは大して重要なシステムじゃないんだという無言のメッセージになって、ITエンジニアたちをシラけさすことになるのです。

 発注担当者として、コンピューターやネットワークといった最新技術を駆使したITシステムのプロジェクトを成功させる一番のカギは、技術に精通していることでも業務に精通していることでもなく、「思い」というとても人間的で感情的な部分にあるのではないかと思うのです。

2017年6月18日日曜日

“人類最後の職業”はプログラマーだ――プログラミングを学ぶ意味とは

“人類最後の職業”はプログラマーだ――プログラミングを学ぶ意味とは | 文春オンライン:

 この山ちゃんウェブログでも、人工知能(AI)が人間の仕事を奪っていくという方向の話をいくつも取り上げてきました。体力のある人が得意とする肉体系の仕事は機械が、体力派ではないものの単純な事務処理は従来のコンピューターがその仕事を奪ってきました。現在のビジネスの世界で高給を取っているのは基本的には頭のいい人なのですが、そんな頭のいい人が高給で迎えられてきた頭脳系の仕事すら今後はAIが奪っていくと考えられています。人間に残されるのは、体力系もダメ、単純作業はダメ、頭脳系もダメとなったとき、いったい人間に残される仕事とはいったいどんな仕事だろうかと考えたとき、大きく次の2種類の仕事ではないかと考えています。1つはコンピューターやAIのおこぼれにあずかるような仕事(例えば、機械やコンピューターのメンテナンスなど)です。そしてもう1つは、体力でもなく頭脳でもない才能が評価されるような仕事(例えば芸術方面や宗教方面、水商売系など人間の心をいやすような仕事)ではないかと。

 そして今回取り上げさせていただいたのは、カドカワ株式会社代表取締役社長の川上量生氏による、プログラマー最強説です。プログラマー最強と言われると、現在のプログラマーという職業に就いている方々から、プログラマーなんて「IT土方」はやめた方がいいですよなんてコメントが付くかもしれませんが、ここで言う最強とは、いずれ機械・コンピューター・AIに取って代わられる体力系・単純作業・頭脳系の仕事の中では、最後まで残る部類の仕事ではないかという意味です。つまり、人間からAIに頭脳系仕事の主体が変わっていく過渡期においては、AIに指示を出す人間つまりはプログラマーが重要な役割を果たすということです。もちろん川上氏は、すべての人間がプログラマーになるべきだなんて言われているわけではありませんが、それでもプログラミングを学ぶことはすべての人が行なった方がいいと言われており、自分のそのご意見には全面的に賛成します。

 ある意味逆説的でとてもあまのじゃくな言い方ですが、自分が思うすべての人が「プログラミングを学ぶべき」というのは、必ずしもプログラミングそのものを身に付けることが目的ではありません。いわゆる汎用AIとか強いAIと呼ばれるような、そこに魂が宿る種類のAIが世に出てくるのはまだまだ当分先です。現在のAIは機械学習をベースにしたもので、途中の学習の過程が人間に追い切れないという意味で意思を感じられる場合もありますが、極論すればあくまでも電卓の延長線上ではあります。AIに仕事をしてもらいたければ、コンピューターを使う人間の側が仕事を定義したりデータをそろえたり、うまくいかない場合のデバッグさえ人間が行なう必要があるのです。何となくAIと言えば万能で、声で命令すればそれを理解して仕事をやってくれそうに思いますが、それはあくまでもサービスとして誰かが膨大な仕事をしたから可能になっていることです。つまり、当面の間はAIやコンピューターの強力な頭脳や知能を使うためには、人間側がかなりコンピューターにすり寄って行かなければなりません。そして、コンピューターへのすり寄り方を一番効率よく学べるのが「プログラミング」だと思うのです。

 川上氏が言われるのは、まわりに溢れているコンピューターの気持ちを理解できることが、これからの人間に必要な能力だということです。現在様々な企業の採用面接で重要視されている能力の一つに「コミュニケーション能力」がありますが、それは人間との関わりがない仕事はほとんど無いためでしょう。これからはコンピューターとの関わりがない仕事もほとんど無くなってくるでしょうから、人とだけでなくコンピューターとのコミュニケーション能力も重要になってくるはずです。そんなコンピューターとのコミュニケーションを学ぶには「プログラミングを学ぶ」ことが一番の近道だと思うのです。

2017年6月16日金曜日

超巨大スタートアップGE - ソフト開発のアウトソーシングを全面否定するGE

超巨大スタートアップGE - ソフト開発のアウトソーシングを全面否定するGE:ITpro:

 今回の話題はソフトウェアのアウトソーシングということについての是非論です。自分自身の仕事が電機メーカーのソフトウェア開発者という立場であることもあって、この山ちゃんウェブログでは以前に、企業は望むと望まざるとにかかわらず、いかなる業種・業態であれ、ソフトウェアという土俵で戦うことになるという趣旨の記事を書いたりしました。その中で、プログラムを書けるレベルのソフトウェア的思考回路は、非ソフトウェア企業のビジネスマンにとっても必須の能力になるだろうと言いましたが、今回のゼネラルエレクトリック(GE)のソフトウェア内製化という方針転換は、自分の持論を裏付けてくれるような気がします。元にしているのは、中田敦氏によるITproの記事です。

 まずは元記事に掲載されている、GEのジェフ・イメルト会長兼CEOの言葉を以下に転載させて頂きます。

産業界の多くの企業が20年前に進めた『デジタル筋肉(マッスル)』のアウトソーシングが、今日には敗者であると我々は学んだ。今後、GEのすべての新規採用者はコード(プログラミング)を学ぶことになる。彼ら全員がソフトウエアを書けるようになるとは期待していないが、デジタルの未来における『可能性の芸術(アート)』は、必ず理解しなければならない。

 実はイメルト氏のこの言葉は、これまでの産業界の常識とは全く逆を行くものです。80年代以降、多くの企業がソフトウエア開発のアウトソーシングを進めてきました。日本でもいまだオフショアなんて言葉を使って、インドなど海外に製品プログラムさえも外注するケースが多く見られます。自分の勤める会社でも、製造と合わせてソフトウェアの設計開発を関連会社などへ移そうという動きがあります。その最大の目的はコスト削減。ソフトウェアの設計製造はそのほとんどのコストが人件費ですので、大企業では自社の社員より安い給料で仕事をする外部(海外も含めて)へ委託するケースが多いのが現状です。

 しかしここへ来て、GEはソフトウエア開発のアウトソーシングを全面否定しました。さらに、今後は営業や財務、業務部門など部門も含めて、全員がプログラミングのなんたるかを理解して、デジタル化を実現するすべを理解しなければならないとまで主張するのです。全く正反対への方針転換と言ってもいいでしょう。

 トップの言葉を裏付けるかのように、GEは2011年カリフォルニア州サンラモンにソフトウエア開発拠点を開設し、2000人ものソフトウエア開発者やデータサイエンティスト、デザイナーをかき集め、同社が推進するインダストリアルインターネット(IoTの産業版を表す言葉)を実現するためのプラットフォーム「Predix」や、その上で動く様々なアプリケーションを開発しています。

 アウトソースからインソースというこの方針大転換は、一体どういうことなのでしょうか。GEのファウラーCIOは、情報システムの74%をアウトソーシングしていたことを「ナレッジキャピタル(知識の資本、蓄積)」を失う行為だったと振り返ります。

 リーマンショック以来の先行きが読めない世界では、アイデアを早く実装して顧客に試して貰い、フィードバックを得て良いものへ改善していくというアプローチが取られます。シリコンバレーでは「リーンスタートアップ」と言われる考え方で、仮説の構築・製品の実装・軌道修正という過程を迅速に繰り返すビジネス開発手法で、最近は日本でもPoC(Proof of )なんていう言葉で同じようなことをやっています。簡単に言えば「お試し」なのですが、試食とか試着のような製品を試してもらうよりも、顧客に試してもらって改善点を見つけフィードバックすることで一緒に製品やサービスを作り上げて行こうという考え方です。

 そのために必要なのは、アイデアを素早く実装し顧客からのフィードバックもすぐに実装に反映させる極めて高い「ソフトウェア開発力」です。アイデアも顧客から得られたフィードバック(中田氏は「学び」と表現されています)も、それを反映した実装(ソフトウェア)こそがキモです。「ナレッジキャピタル」と言う言葉は、日本では様々な人が知を持ち寄って交流することで新たな価値を生み出す場というような意味で使われるケースもありますが、ファウラーCIOのうところのナレッジキャピタルは文字通りの「ナレッジという財産・蓄積」という意味で、ではナレッジとはどういう形で蓄積されるのかと言えば、それは「ソフトウェア」という形なんだというわけです。

 自分は、IoT時代の産業ビジネスの世界では、製造業だけでなくサービス業・農業までもが、その競争力の源泉はナレッジなんだと思います。そして、ナレッジを実装したものがソフトウェアですから、ソフトウェア開発力というのは企業の競争力そのものと言うことができると思います。そう考えれば、他社との差別化を行なうための競争力の源であるソフトウェア開発を外部に依存する「アウトソーシング」では、ビジネスの世界を勝っていくことはできません。自分がソフトウェア開発者と言う立場なのでついつい手前味噌になってしまいますが、企業の競争力の源は「ソフトウェア開発力」だということを、日本企業の経営者も噛み締めてほしいものですね。

2017年6月15日木曜日

[C#] Excelファイルを簡単に読み書きする方法

 今回は久しぶりの元ネタなし、プログラムそのものに関する話題です。今回解こうという課題は、C#のプログラムでExcelファイルの内容を読んだり書いたりしてみようというものです。とは言っても、Excelファイル上のグラフや図などを相手にするのではなく、単にセルに入力された文字列を取得したり、セルに書き出したりという基本動作だけのシンプルなプログラムを作ってみます。

 手元にはちょっと古いVisualStudio2010しかなかったので、これでやってみますが、もちろんもっと新しいバージョンのものを使っても一向に構いません。Excelファイルをプログラムから読み書きするために、Microsoft.Office.Interop.Excelというライブラリーを使用します。ソリューションエクスプローラー上で [参照設定] を右クリックし、こんな画面(↓)からMicrosoft.Office.Interop.Excelを追加してください。

 それではプログラムを書いてみましょう。直接Microsoft.Office.Interop.Excelを扱うのは面倒なので、ExcelAccessorという名前のラッパークラスを準備してみます(↓)。コンストラクタでExcelファイルのパスを指定し、セルの値にはインデクサを使用してアクセスします。Microsoft.Office.Interop.Excelの中ではセルはRangeというクラスのオブジェクトですが、扱いが面倒なのでここでは文字列で扱うことにしましょう。

using System;
using System.Collections.Generic;
using System.Linq;
using System.Text;
using Microsoft.Office.Interop.Excel;
using System.Reflection;
using System.Threading;
namespace Yamachan
{
    public class ExcelAccessor : IDisposable
    {
        private Application excelApp;
        public Workbook Workbook
        {
            get;
            private set;
        }
        public Worksheet SelectedSheet
        {
            get;
            private set;
        }
        /// <summary>
        /// セルの値。インデックスは1始まりであることに注意。
        /// </summary>
        /// <param name="row">行番号(1始まり)</param>
        /// <param name="column">列番号(1始まり)</param>
        /// <returns>セルの値</returns>
        public string this[int row, int column]
        {
            get
            {
                if (SelectedSheet == null) return string.Empty;
                Range range = SelectedSheet.Cells[row, column] as Range;
                return (range==null || range.Value == null) ?
                                string.Empty : range.Value.ToString();
            }
            set
            {
                if (SelectedSheet != null)
                    SelectedSheet.Cells[row, column] = value;
            }
        }
        /// <summary>
        /// コンストラクタ。
        /// ファイル名を指定してExcelファイルをオープンします。
        /// </summary>
        /// <param name="path">オープンするExcelファイル</param>
        public ExcelAccessor(string path)
        {
            // エクセルファイルをオープン
            excelApp = new Application();
            excelApp.Visible = false;
            Workbook = excelApp.Workbooks._Open(path, Type.Missing,
                Type.Missing, Type.Missing, Type.Missing, Type.Missing,
                Type.Missing, Type.Missing, Type.Missing, Type.Missing,
                Type.Missing, Type.Missing, Type.Missing);
            // 最初のシートを選択状態にする
            if (Workbook != null && Workbook.Sheets != null
                    && Workbook.Sheets.Count > 0)
                SelectedSheet = Workbook.Sheets[1] as Worksheet;
        }
        /// <summary>
        /// シートを選択します。
        /// </summary>
        /// <param name="sheetName">選択するシート名</param>
        /// <returns>選択されたシート</returns>
        public Worksheet SelectSheet(string sheetName)
        {
            if (Workbook == null || Workbook.Sheets == null) return null;
            foreach (Worksheet sheet in Workbook.Sheets)
            {
                if (sheet.Name == sheetName)
                {
                    sheet.Select(Type.Missing);
                    this.SelectedSheet = sheet;
                    return sheet;
                }
            }
            return null;
        }
        /// <summary>
        /// Excelファイルをクローズします。
        /// </summary>
        /// <param name="save">上書き保存する場合true</param>
        public void Close(bool save)
        {
            SelectedSheet = null;
            if (Workbook != null)
            {
                Workbook.Close(save, Type.Missing, Type.Missing);
                Workbook = null;
            }
            if (excelApp != null)
            {
                excelApp.Workbooks.Close();
                excelApp.Quit();
                excelApp = null;
            }
        }
        #region IDisposable メンバ
        /// <summary>
        /// このアクセッサを破棄します。
        /// </summary>
        public void Dispose()
        {
            Close(false);
        }
        #endregion
    }
}

テスト用に準備したExcelファイルはこんな感じ(↓)。A〜C欄にそれぞれ英語・日本語・数字で適当な値を入れてみました。Test.xlsxという名前をつけてexeファイルと同じディレクトリに入れます。

 それでは、Excelファイルのセルの文字列を取得するテストプログラムを書いてみましょう。ExcelAccessorはDisposableインタフェースを実装したので、using節を使用してクローズし忘れを防止します。「テストシート」という名前のシートを選択してから、インデクサを使用して2次元配列であるかのごとくセルに入力された文字列を取得します。注意しなければならないのは、プログラマーはインデックス0から始まることに慣れていますが、本家のMicrosoft.Office.Interop.Excelでインデックスが1から始まるのに合わせて、ExcelAccessorのインデクサでも1始まりを使用していることです。1始まりが気持ち悪いという人は、ExcelAccessor側で0始まりになるよう調節するといいかもしれません。

using System;
using System.Collections.Generic;
using System.Linq;
using System.Text;
using System.IO;
namespace Yamachan
{
    class Program
    {
        static void Main(string[] args)
        {
            using (var excel 
                = new ExcelAccessor(Directory.GetCurrentDirectory()+"\\Test.xlsx"))
            {
                excel.SelectSheet("テストシート");
                for (int row = 1; row <= 2; row++)
                {
                    for (int column = 1; column <= 3; column++)
                    {
                        Console.WriteLine("["+row+", "+column+"] "+excel[row, column]);
                    }
                }
            }
            Console.ReadLine();
        }
    }
}

 さて、このプログラムの実行結果はこんな感じです(↓)。プログラム最後のConsole.ReadLine()は、テストプログラムが一瞬で終わってしまうのでコマンドプロンプトが閉じないようにしているだけです。この状態から何か入力して(入力しなくても)エンターキーを押せば、ウィンドウが閉じます。どうですか、簡単に各セルに入力された値が文字列として得られました。


 さて次は、このファイルのセルにプログラムから何か文字列を書き出して見ましょう(↓)。今度はちょっと横着して、Mainメソッドのみ。注意すべきは、ExcelAccessorはDispose()メソッドはファイルを上書きしないように閉じる実装にしたので、上書き保存したい場合は明示的にClose()メソッドにtrueを渡してファイルを閉じなければならないことくらいでしょうか。これも、そういう実装が嫌な方は、Dispose()でも上書きする実装にしてもいいかもしれません。

        static void Main(string[] args)
        {
            var excel = new ExcelAccessor(
                Directory.GetCurrentDirectory() + "\\Test.xlsx");
            excel.SelectSheet("テストシート");
            excel[3,4] = "書込み";
            excel.Close(true);
        }

 このテストプログラムを実行すると、Test.xlsxファイルはこんな風に(↓)プログラムから書き出された文字列がセルに入っています。

 自分が扱っているシステムでは、いまだに帳票をExcelファイルで出力したり、データ一括入力をExcelファイルから行なったりしていますので、簡単にExcelファイルを扱えるExcelAccessorクラスは使いまわして重宝しています。ExcelAccessorはセルの値を文字列で読んだり書いたりするというだけのシンプルな機能ですが、例えば、あらかじめフォーマットを作り込んだマスター用Excelファイルをコピーしてそこに帳票データを書き込むとか、アンケートにユーザー答えを入力してもらったExcelファイルをプログラムが読み取って集計したりなど、以外にもこのシンプルな機能だけで十分なケースが多いように思います。

2017年6月14日水曜日

プロジェクトリーダーとプロジェクトマネージャーの違い、あるいは会社にとって死活的に大事なのはどちらか?

プロジェクトリーダーとプロジェクトマネージャーの違い、あるいは会社にとって死活的に大事なのはどちらか?:プロジェクトマジック:オルタナティブ・ブログ:

 今回の話題は、IT系業務におけるプロジェクトリーダーとプロジェクトマネージャーの違いを説明した白川克氏の記事を元に、少し仕事の愚痴も入りますが自分のような電機メーカーの開発現場もIT系と近い問題があるという話題です。少し愚痴っぽいかも??

 まずプロジェクトリーダー(PL)とプロジェクトマネージャー(PM)のイメージを元記事から転載させて頂きます(↓)。当たり前ですが、PLとPMの違いはリーダーとマネージャーの違いなわけですから、前者はプロジェクトを導く立場、後者は管理する立場ということになるでしょう。

 白川氏によれば、日本ではPMがPLよりも役職的に上であることが多いので、「名目上の偉い人≒PM」で「実際に現場を取り仕切る人≒PL」というように見られがちですが、本来のあるべき姿は、PM・PLというのは「仕事内容の違い」であってエラさの違いではありません。しかし自分のところもそうなのですが、古き良き日本企業は「エラい=マネージャー」というのが刷り込まれていますので、実際にはプロジェクトのことなど分からないがエラい人というのをPMというポジションに祭り上げておくということはよくあります。つまりPMとは名前だけの人で何もしない(たまに工程表をチェックして、遅れを取り戻せとゲキを飛ばすだけ)、実際にはPLとされる人がPMとPLを兼ねるというのが実態であることが多いと思います。

 本来の定義におけるPLとPMを見たとき、「よそ者」でも務まるのがPM・内部の人しか務まらないのがPLと言えるかもしれません。古き良き日本企業で、無能だが役職だけエラい人がPMにおさまりいいのも、プロジェクト固有の課題や問題点・解決方法といった部分には入り込まず、全てのプロジェクトでも共通的に必要なPDCA(Plan・Do・Chech・Action)を回すことが仕事です。アメリカなどではPMという仕事それ自体がプロの仕事として認知されていますが、それでもPMは「外から買ってくることができる」と言われるのはそのためです。それに対してPLは、チームをまとめゴールまで導くリーダーですので、経営層や関連部署などの関係者を巻き込んで彼らを納得させ、チームメンバーにやるべきことをやってもらい、次々と起こる問題を乗り越えながら狙い通りのITをつくり上げるのです。つまりPLは使い回しをすることができない、あるプロジェクトで素晴らしい力量を発揮したPLがいるからといって、彼を全く別部署のプロジェクトに引っ張ってきてもうまく力量を発揮させられないのです。それはそうですよね。全く門外漢なプロジェクトにヘッドハンティングされても、利害関係者とのコネクションもなければ狙うべきゴールもイメージできず課題の解決方法も手探りになるはずです。

 したがって、育てるべきはPMではなくPLなんだというのが白川氏の主張です。自分も概ね賛成です。特に日本企業のような無能だがエラいPMは「お飾り」だけですので、実質的にプロジェクトの成否のカギはPLの双肩にかかることになります。ただ、そんな日本企業のお飾りPMであっても、できればその「エラさ」を活用して経営層や関連部署とのネゴ(交渉)に活躍の場を持って欲しいと思っています。白川氏によれば、関連部署のネゴもPLの仕事に割り振られていますが、社内でお飾りPMを立てる場合はその仕事はPMの仕事としたほうがいいと思います(もちろん社外からプロPMを買ってくる場合は違います)。

 ところで、自分のようなメーカー系開発の場合は、白川氏の主戦場であるIT系と違ってソフトウェア開発メンバーは少人数であることが多いので、PLは設計者が兼ねるケースが多いと思います。つまりPLは、設計者とプログラマー数名(外注も含む)の中のリーダーということになります。恐ろしいことに1人プロジェクトというものがあって、PL・設計者・プログラマーを全て1人が兼務ということさえあります。IT系の開発プロジェクトはオートメーション化された最新工場のように役割分担されていますが、自分たちの場合は家内制手工業のように何でも1人でこなしているのが実態です。もちろん開発するプログラム規模が小さいことが多いのでそういうことが可能なのですが、必然的に少人数のプロフェッショナル(その製品のソフトウェア全体をスミからスミまで理解しているような人)が生まれやすい土壌で、彼らは余人をもって代えられない人材となります。リプレースできない人材というのは経営面ではリスクになり、例えばある製品のPLが会社を去ってしまうとその製品の継続すら危ぶまれる事態になりかねません。実は、自分のところでも最近、キーマンだったPLが抜けてしまったある製品(システム)の継続開発ができないので、一から作り直してもらえないかという話が来ています。仮にそうしたところで今度はキーマンが自分になってしまうだけですから、本質的な解決にはならないのですが、経営層としては何かトラブルがあった時にキーマンが社内にいることの安心感を得たいのかもしれません。

 PMは汎用的なマネージャー、PLはプロジェクト特化型のキーマンです。外から買ってくることもできるのがPM、社内でしか育てられないのがPLです。したがって、真っ先に社内で育てるべきなのはPLですが、PLは一朝一夕には育たないことも事実です。さらに、自分たちのようなメーカー系開発の場合は開発人数が少ないがために、PLの重要性はより一層増すように感じています。企業は、社内で育てたPLが他所に行かないよう、囲い込むくらい大切に扱ってほしいものです。

2017年6月13日火曜日

宇宙人はすでにデジタル世界で休眠中? フェルミのパラドックスを解く新説

宇宙人はすでにデジタル世界で休眠中? フェルミのパラドックスを解く新説|ギズモード・ジャパン:

 今回はちょっと突飛なお話ですが、宇宙人の存在に関する面白い新説が唱えられているという話です。宇宙人の存在に関しては、「フェルミのパラドックス」というのがあります。それは、物理学者エンリコ・フェルミ氏が指摘した、地球外文明の存在の可能性の高さと、そのような文明との接触の証拠が皆無である事実が矛盾しているということです。

 フェルミのパラドックスを解く説は、現実的なものからおとぎ話のようなお話までいくつか提唱されています。例えば、そもそもこの宇宙には地球以外に生命体が存在しないという説や、宇宙人は存在するが恒星間空間に進出し地球にたどり着くための進化・技術発展における難関を突破できないとする説。しかし微生物レベルの地球外生命体の証拠はすでに見つかっているので、最初の説は可能性が低そうです。他にも、地球の生命に擬態して正体を隠しているとか五次元に存在するので我々には検出できないなんて、SFのような荒唐無稽な説もあるようです。今回の元記事は、Journal of the British Interplanetary Societyに発表されたAnders Sandberg、Stuart Armstrong、Milan Ćirkovićの各氏による論文を紹介し、パラドックスを解く新しい説=宇宙人休眠説を紹介しています。

 「宇宙人休眠説」とは一体どんなものでしょうか。それは文明が高度に発展している宇宙人は、すでに肉体を捨てて「デジタル化」しているという仮説です。シンギュラリティを描いた映画「トランセンデンス」でジョニー・デップ演じる博士が、自分の意識をコンピュータにアップロードしましたが、まさにそれと同じように、脳をデータ化してコンピュータネットワークの中に生きる場所を移したという説なのです。これまでの説の中でも特に荒唐無稽な説だと見えますが、実は未来学者・宇宙生物学者・地球外知的生命体探査のエキスパートといった人たちの中に、宇宙人は肉体を捨て去ってデータとして存在しているという説を支持する人は増えているのだそうです。

 データになってしまえば、肉体の寿命にとらわれることなく「永遠の生命」を得ることができます。もちろん、そのコンピューターネットワークの存在する限りということではありますが。しかし、そんなデジタル化した文明を維持するには、現在の宇宙の温度では高すぎるというのです。現在の宇宙背景放射の温度は3K(ケルビン)ほど、摂氏温度に直せばー270℃ほどで、自分などこれ以上冷やす必要がないほど十分寒いと思うのですが、専門家の見立てでは、デジタル化した宇宙人の文明にとってはそれでも暑すぎるんだそうです。確かにコンピューターにとって熱は最大の敵で、実は自分もサーバーがたくさん配置されたデータセンターに入ったことがありますが、サーバー室は真夏でもコートが必要なくらいガンガンに冷房をしてコンピューターを冷やしています。それにしても、ー270℃が暑いというのは、「デジタル宇宙人」が生きているコンピューターネットワークはどんなスーパーコンピューターなのでしょうか。

 そして今回の新説は、かつて地球外高度文明は存在していたものの、すでにほとんどの宇宙を探索し終えて、今は宇宙が冷えるまでの休眠状態に入っているという主張になります。確かに、宇宙人がデジタル化された存在だったら人類とまだ出会っていなくても不思議ではないですし、休眠中であればなおさら出会うのは難しいでしょう。

 しかし、宇宙人が肉体を捨ててデジタル宇宙人となり、コンピューターネットワークの中で休眠しているので人類が彼らに出会えないというのは、やはりSF的で荒唐無稽な説に思えます。SF作家・天体物理学者、地球外知的生命体探査のエキスパートという肩書を持つデイヴィッド・ブリン氏は、この学説を面白いとしつつも、いくつかの欠点を指摘しています。1つは「休眠」ということに必然性がないことです。何もパソコンのスリープ機能のように完全休眠でなくてもいいはずで、省エネモードで少しずつ活動していてもいいのではないでしょうか。2つ目は、完全休眠状態にいる間に、他の宇宙人に攻撃されることはないのかというものです。高度な文明を持って自らデジタル宇宙人となった宇宙人は、1種類とは限らないじゃないですか。

 ツッコミどころ満載のこの新説ですが、色々な可能性を考えて1つ1つ検証していくという「仮説」の考え方からすれば、面白い仮説ですね。もしかして、高度な文明を築いて自らの肉体を捨て去り、コンピューターネットワークの中でデータとして生きていくという道を辿るのは、われわれ人類の未来だったりして...

2017年6月12日月曜日

大いなる力には大いなる責任が伴う:IoT時代の功罪

大いなる力には大いなる責任が伴う:IoT時代の功罪 | ReadWrite[日本版]:

 今回の話題は久しぶりにIoT(Internet of Things)。全てのモノがインターネットに繋がって、バラ色の未来をもたらしてくれるというアレです。元記事はEran Abramson氏のもので、氏はプライバシー問題と便利さとのバランスが重要だと述べておられるのですが、この記事の中で自分は氏の主張をさらに一歩進め、IoTはプラバシーの侵害だと言いたいと思います。

 そんなことを言う自分も実はIoTを仕事上の主要フィールドとしていて、これまで、センサー・アクチュエーターの入出力を行なう1次デバイス(IoTデバイス)はセキュリティ面の問題があるので、直接的にインターネット接続はしないほうがいいという主張をしてきました。しかし、今回はそういった技術面の話ではなく、そもそもIoTによって「いつでもオンライン」が加速し、それは個人のプライバシーが侵害するという社会的な問題点なのです。

 「いつでもオンライン」。実は、これは従来よりデジタル化の技術開発の中で、常に目指されてきた目標でした。インターネットそのものがいつでも情報にアクセスできることを目指して開発された技術ですし、携帯電話・スマートフォン・ウェアラブルデバイスも、まさに人がいつでも情報にアクセスできるようにするためのデバイスです。Twitter・Facebook・InstagramなどのSNSは、インターネットを介していつでも人と繋がった状態を感じられるサービスです。エンタープライズ向けとは違って、コンシューマ向けIT系デバイス・IT系サービスは、人と情報の間の距離をいかに縮めるかを目標として進んできました。

 Abramson氏の指摘は、IoTの世界ではこの「いつでもオンライン」を再定義しなければならないというものです。今後ますますリアル世界とネット上のバーチャル世界の切り離しが難しくなると予想されます。例えばあなたが目を覚ましたら、その信号をキャッチしてコーヒーメーカーやトースター・冷蔵庫などがデータを同期し、自動的にコーヒーを淹れたりトーストを焼いてくれるかもしれません。冷蔵庫は中にある食材を元にオススメの朝食レシピを示してくれるかもしれませんし、冷蔵庫はあなたの好みを学習しあなたの好物の残量が減ってきたら自動的に発注してくれるかもしれません。あなたがトイレに行ったらトイレのセンサーがあなたの健康状態を記録し、場合によっては病院の予約まで入れてくれるかもしれません。あなたが出勤しようと部屋を出たら、マンションのドアと連動したエレベーターが迎えにきて、駐車場に降りたあなたは自動運転車に乗り込みます。あなたの自動車の出庫を検知すると、マンションの出入口ゲートが自動で開くことでしょう。

 IoTの世界における朝起きてから出勤までのシミュレーションをしてみましたが、皆さんはどう感じたでしょうか。未来的で、至れり尽くせりのハッピーな世界かも知れません。こういう至れり尽くせりの「スマートハウス」を目指したIoTの開発は急ピッチで進んでいますし、その開発陣が目指すところの生活スタイルはこの例と当たらずといえども遠からずだと思います。しかし、一方でこういったスマートハウスはお節介だと感じる方もいるのではないでしょうか。サービスのお節介だけではなく、そんなにも多くのデータがセンシングされるのが気持ち悪いと感じる人もいるかも知れません。なにせ、遊んでいる時や眠っている時でさえ、我々がそこにいること自体が追跡され、センシングされてデータがアップロードされ、そのデータにアクセスされるわけですから。

 IoTにおけるプライバシー問題は便利さとのトレードオフです。ここで言う「便利さ」とは「パーソナライズされた最適化」ということで、GoogleやAmazonなどが収集した個人情報を元に、パーソナライズされたサービスを提供しているところもその一端です。例えば、昨日Amazonで物色した商品が次の日にスマホ上でレコメンド(推奨)されたり、予約したホテルの確認メールがGmailに送られてくると、Googleがその内容を分析して宿泊するホテルの近くのグルメや観光情報を提供してくるかも知れません。国際的にプライバシー問題が盛り上がっていた20世紀の人が今の我々の生活を見れば、特定のIT系巨大企業にあまりにも個人情報が収集されていることに愕然とするかも知れません。それでも、私たちは「慣れた」のです。GoogleやAmazonは、プライバシーを収集される薄ら寒さを補うだけの手厚いサービスを提供して、私たちをもてなしてきたのです

 これまでは、どうしても個人データが収集されるのは我慢がならない人は、GoogleやAmazonのサービスを使用しないという選択肢もあったと思います。つまり、ネット上のバーチャルな世界には足を踏み入れずリアル世界でのみ生きていれば、基本的にはGoogleやAmazonにデータを収集されることはありませんでした。もちろん今となってはそんな生活は不便ですが、GoogleやAmazonのなかった時代でも人間は立派に生きていられたのですから、そういう選択もアリでしょう。しかし、IoTはそうは行きません。いくら我々がリアル世界に踏みとどまっていても、リアル世界のデータを収集してバーチャル世界に転送するのです。しかもそのデータ収集は、我々に意識させないよう巧妙に行なわれます。

 Abramson氏は、便利さとプライバシー保護のさじ加減が重要だと主張されているのですが、なるほどそれも一理ありますが、自分は議論の本質はもっと根源的な部分(「そもそも...」の部分)にあると思うのです。つまり自分は、便利さとプライバシーのバランスという議論ではなくて、私たちが「選択できない」「拒絶できない」ことこそがIoTの問題点ではないかと思うのです。

 理論的なプライバシー論の起源は、1890年アメリカのSamuel D. Warren氏とLouis Brandeis氏が書いた論文「プライバシーの権利」にさかのぼると言われています。両氏はプライバシーを「一人でいさせてもらう権利(the right to be let alone)」と定義づけています。「一人でいさせてもらう」というのは、隔絶されることを望めばそれを選べるということです。GoogleやAmazonが我々のネット上の行動履歴を収集することは、我々が望めばそれを拒絶することはできました。しかし、IoTの世界では、ネット上のバーチャルな世界に足を踏み入れていなくても、リアル世界に生活しているだけであらゆる情報を収集され、我々がそれを拒絶する方法はほとんどありません。Warren氏とBrandeis氏のプライバシー定義によれば、IoTの問題点の1つは「プライバシーの侵害」であると言い切ることができるでしょう。

 そこで自分の提案は、今後おそらく誰もかれもIoTをうたった製品を投入するでしょうが、あえて「IoTでない」ことをウリにした製品を投入してはどうかと思うのです。つまり、この製品はネット接続機能がないこと、ユーザーのデータを収集しないことをウリにして「一人でいさせて」もらいたい人をターゲットにするのです。「IoTである」ことをウリにする製品と同じくらい「IoTでない」ことをウリにする製品が世に出て、ユーザーに選択権がある状態が望ましいと思います。IoTによってパーソナライズされた便利な生活を追求する人がいてもいいですが、完全にオフラインでいることを選択する人がいてもいいと思うのです。

2017年6月10日土曜日

「私は死ぬのでしょうか?」真実を答える

マシュー・オライリー: 「私は死ぬのでしょうか?」真実を答える - YouTube:

 今回はこの山ちゃんウェブログでは初の、YouTube動画を元にした記事です。元の動画はマシュー・オライリー氏の公演映像で、氏はニューヨークのロングアイランドで活躍しているベテラン救命救急医療技術者です。多くの氏に立ち会ってきたオライリー氏は、自らの経験にもとづいて人が死の直前に取る行動は大きく3種類だと述べられています。

 自分もそうですが、この記事を読んで頂いている多くの人にとっても、最大の恐怖は「死」ではないかと思います。もちろん「死」が遠い未来のことでなんとなく恐怖を感じるだけの人もいれば、数年後に迫っていると再確認して身震いした人もいるでしょう。救命救急という特殊な職場にいるオライリー氏の場合、もはや手の施しようがなく数分後に「死」が迫った人とのやり取りを多く経験されており、最も基本的なジレンマに悩まされてきたというのです。そのジレンマとは、彼らにすぐに死ぬだろうと伝えるべきか、それとも安心させるために嘘をつくべきかということです。

 当初オライリー氏は、患者さんにあなたの命はあと数分ですと伝えたら、患者さんが恐怖で人生の最後にしがみつきながら死んでいくのではないかと、嘘を伝えるようにしていたそうです。しかし、あるバイク事故の患者さんの対応をしてから、その考えは変わったのだそうです。患者さんの「私は死ぬの?」という質問に「あなたはすぐに死にます。そして私にできることは何もありません」と伝えた時、彼はただ横になり受け入れた表情を見せたのだそうです。それは「安らぎ」とでも言える表情だったのだとか。それ以来、オライリー氏は、死にゆく人を嘘で安心させるのは正しくないと考えを改めたのだそうです。そしてたいていの場合、彼らはバイク事故の患者さんと同じように、安らぎと受け入れを示したのだそうです。

人が眼前に迫った「死」を受け入れた時、示す反応は大きく3種類なのだそうです。1つ目は「懺悔」です。心臓発作のお年寄りは、自らの死に際して「自分の時間に自分勝手にならず、子どもたちや孫たちともったたくさんの時間を過ごせばよかった」と許しを請うたそうです。2つ目は「記憶の中で生き続ける願望」です。死にゆく人は、この世に残る側の人(特に愛する人)の記憶の中だとしても、生き続けるのだと感じたいのです。多くの患者が死に際して、オライリー氏に「私を覚えていてくれる?」と言ったのだそうです。そして最後のパターンは「この世に生きた証の確認」です。死にゆく人は、自分の人生には意味があったのだと確認したいのです。それは仕事の成果かもしれませんし、次世代の子供達を育てたことかもしれません。自分がこの世で成し遂げたことを確認して、自分は無駄に生きはしなかったのだと確認したいのでしょう。そして何よりも興味深いのは、どのパターンも「生への執着」ではなく「死の受け入れ」だということです。

 自分は、人生最後の瞬間というものは、すでに長く生きて死の覚悟を決めた仙人のような人でもなければ、恐怖に満ちたものなのだろうと思っていました。しかし、心の準備ができぬまま「死」に直面する人を多く見てきたオライリー氏によれば、多くの人は死の瞬間は安らぎと受け入れで満ちているのだそうです。「生への執着」ではなく「死の受け入れ」。死への恐怖が多少和らいだような気がしませんか。

2017年6月9日金曜日

「科学の力」で痴漢をなくす、驚きの方法

「科学の力」で痴漢をなくす、驚きの方法(原田 隆之) | 現代ビジネス | 講談社(1/5): "原田 隆之"

 今回の話題は、電車通勤・電車通学の闇「痴漢」です。元にした記事は原田隆之氏によるもので、日本特有の犯罪「痴漢」の再犯を感情論ではなく科学的に撲滅しようという取り組みが示されています。

 さらっと「日本特有の犯罪」と書きましたが、原田氏によれば実は「痴漢」という犯罪は海外では(特に欧米では)ほとんど存在しない犯罪なのだそうです。日本にだけその犯罪がある背景には、一つは交通事情があるでしょう。電車を使った通勤・通学者数は、首都圏約800万人、中京圏約70万人、近畿圏約250万人と、この三大都市だけで一千万人もの人が朝夕の大移動を行なっています。東京にある会社に通う人の通勤平均時間は58分で、過半数の人は1時間以上かかっているというデータもあり、日常では考えられないくらい赤の他人と身体を密着させた状態で1時間ですから、痴漢の発生しやすい土壌があると言えるでしょう。もう一つは、日本の女性の社会進出とともに自己主張ができる女性が増えたとはいえ、まだまだ欧米の女性に比べれば大人しく控え目な女性が多いということです。三大都市圏に住む女性約2,000人の調査では、痴漢の被害体験があると約14%のうち、80%もの人が「我慢した」「その場から逃げた」と回答しており、「通報した」のはわずか2.6%。通報しなかった理由は、「恥ずかしかったから」「怖くて何もできなかったから」と答えています。

 海外(特に欧米)で痴漢犯罪がほとんどないことを考えれば、原理的にはこの犯罪をほぼゼロにすることは可能であるはずです。まずは、先に示した2つの要因に対して対策を行うことを考えてみましょう。1つ目の通勤ラッシュ問題は、最近ですと、東京都の小池知事が「満員電車ゼロ」を公約に掲げています。直感的にもガラガラの電車で痴漢は起きづらいでしょうから、通勤ラッシュをなくすことができれば、痴漢問題は一気に解決できるかもしれません。時間をずらした通勤などソフトウェア的な発想も絡めていけば実現の見込みがない対策法ではないでしょうが、日本式の9時-5時勤務で凝り固まった企業が多いため、一朝一夕には実現できないかもしれません。2つ目の日本女性の大人しさに対する対策も、これまであまり有効な手立ては出ていないように思えます。埼玉県警が「さわらないで」などと書かれた「痴漢撃退シール」を配布したり、痴漢抑止活動センターが「私たちは泣き寝入りしません」などと書かれた「痴漢抑止バッジ」を配布したりしましたが、大人しい女性はそんなシールやバッジを身につけるのも恥ずかしく思うでしょう。

 2つの原因に対する対策が両方難しいとなったら、一体どうすればいいでしょうか。これまでの対策案では壁にぶつかってしまうので、全く違った角度からの発想が必要かもしれません。そこで、元記事の原田氏のアイデアです。そのアイデアとは、「痴漢」を「病気」として捉え、その治療に当たるという発想です。実際、精神障害に関する世界的な診断基準である「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)」には、窃触症という疾患が記載されており、それは同意していない人に触ったり、身体をこすりつけたりすることから得られる反復性の強烈な性的興奮が、空想、衝動、または行動に現れる障害であるとされています。痴漢を含めた性犯罪は、衝動や行動を抑えられずコントロール不能になることが多いのも特徴で、そういう意味でも精神科の領域で「治療」という概念は意外なまでにマッチすると思うのです。

 実際に原田氏は2008年から、精神科クリニックで痴漢、盗撮、露出、下着盗などの性犯罪を行った者に対し、「性的依存症」の治療プログラムを実施しているのだそうです。言わば「痴漢外来」とでも言えるでしょう。患者の約80%は逮捕歴が、15%には受刑歴があり、逮捕されても刑務所に入っても、性犯罪をやめられなかった人々です。そんな患者が、原田氏の治療を受けた後の再犯率は4%だそうで、大きな再犯抑制効果が示されていると言えるのはないでしょうか。実際の治療の方法はとてもシンプルで、「脳にスイッチを入れない」「物理的に痴漢ができないようにする」工夫を本人に考えて実行してもらうというものです。例えば、満員電車に乗ると脳にスイッチが入ってしまう人は、早く家を出て空いた電車に乗る、会社の近くに引っ越す、自動車通勤に変える、といったことで、依存症に対する典型的な対策方法である「野良猫に餌をやらない」ことを実践するのです。
すると彼らは口々に「嘘のように楽になりました」と言うのだそうです。

 原田氏の考え方は、これまでの発想の延長にはない考え方かもしれません。しかし、痴漢をなくすには被害者が満員電車に乗らないようにするか、加害者が満員電車に乗らないようにするかであり、前者だけでなく後者の対策も有効なんだ言われてみればそれほど突飛な考え方でもないでしょう。我々は痴漢や性的犯罪の加害者ともなると、汚いものでも見るような見方をしてしまいそこで思考停止してしまいがちですが、加害者側も性的依存症に苦しんでいるんだと想像をすることで、加害者側を救うという考え方はとても自然に出てきます。目から鱗と言いますか、コロンブスの卵と言いますか、そういう画期的なアイデアだと思います。

2017年6月8日木曜日

人工知能はいつどの分野で人間を超えるのか?

[1705.08807v1] When Will AI Exceed Human Performance? Evidence from AI Experts:

 将来的に機械やコンピューター・人工知能(AI)が人間の仕事を奪っていくという予測がされていますが、もはやそのこと自体は確実視され、それが「いつ」「どの分野」なのかということに関心が移ってきているようです。今回は久しぶりに、この山ちゃんウェブログで何度となく取り上げてきたAIとシンギュラリティ(技術的特異点)に関する話題を、久しぶりに取り上げたいと思います。元記事は、Katja Grace, John Salvatier, Allan Dafoe, Baobao Zhang, Owain Evansの各氏による論文記事です。

 元論文は、2015年のNIPSとICMLといった学術会議でAIに関する発表を行った科学者352人に対するアンケート調査結果を示しています。彼らに対して、例えば「洗濯物を畳む、言語を通訳するなどの特定のタスクを行う能力」および「トラックドライバーや外科医などの特定の職業」などに関し、AIが人間を上回るタイミングはいつなのか、そしてそれはユートピアなのかはたまたディストピアなのかといった質問を行なっています。元論文の中では頻繁に使用されているHLMI(High-level machine intelligence、高レベル機械知能)はあまり耳慣れない用語ですが、機械・コンピューター・AIが人間の手を借りず人間と同程度かそれ以上に上手に行なえるようになることという程度の意味に使われているようです。以前、AIには「強いAI」と「弱いAI」があって、現在の第3次AIブームはあくまでも「弱いAI」だということを書いたことがありますが、HLMIは「弱いAI」が実用化レベルに達したくらいの位置付けで、あくまでも分野特化型の弱いAIで、汎用の「強いAI」のことを指しているわけではありません。分野特化型の弱いAIとはいえ、いわゆる魂が宿った存在ではないだけ人間にとって扱いやすく、人間の仕事を肩代わりするにはある意味理想的な存在かもしれません。

 HLMIはいつ現れるのかという質問に対する科学者たちの回答を集計すると、今後45年以内と答えた科学者は50%ほど、今後9年以内という回答は10%ほどでした(↓)。いわゆるシンギュラリティ2045年説というのがありますが、科学者の予測によればそれはもう少し先と見ているように思えます。そうは言ってもグラフをよく見てみると、時期予測には相当なバラツキがあることも確かですが。

 次にそれぞれの職業について、「人間を越えるAIが生まれる可能性」が50%になるタイミングについてのアンケート調査結果は次のようになりました(↓)。グラフの色が濃くなっている部分がバラツキの幅を表し、黒い点は中央値です。

 上側のグラフの縦軸は「人間が行う全ての職業の全自動化」「AI研究者」「HLMI」「数学の研究」「外科医」「パトナム数学競争」「ニューヨークタイムズのベストセラーを書く」「販売員」「囲碁」となっており、それぞれの職業でAIが人間に置き換わるタイミングの中央値は、人間が行う全ての職業をAIが取って代わるのは122年後、AI自身が人間のAI研究者を越えるのが90年後、AIが人間の数学者を上回るのは43.4年後、外科医を上回るのが37年後ごろとなっています。最近盛んに言われていてこの山ちゃんウェブログでも何度か取り上げたAIが人間の仕事を奪うという文脈は、確かに将来的に可能性の高いことですが、科学者たちは世間で煽られているほど目先のこととは考えていないようですね。

 下側のグラフは30年後までを細かく表したもので、縦軸にはもう少し簡単そうなタスクが並んでいます。比較的臨機応変な対応が必要な販売員の仕事をAIが取って代わるのは15年ほど、もっと単純なモバイル向けゲームのAngry Birdsが人間以上にできるのは3年以内だそうです。

 多くの科学者は、いったんHLMIが実現すれば、その後のAIの進化は急ピッチ化して人間のタスクの多くを行なえるようになると考えています(「知能大爆発」と呼ばれています)。HLMI実現の2年後に、AIが人間が行う全てのタスクを人間より上手く行なえるようになる可能性の中央値は10%で、HLMIの2年後に世界的なテクノロジーの大躍進が起こる可能性の中央値は20%とのことでした。

 HLMIがもたらすものはユートピアかそれともディストピアかという質問に対しては、「よい結果になる」という確率の中央値は25%、「非常によい結果になる」は20%と高めだった一方で、「悪い結果となる」が10%、「非常に悪い結果となる」が5%でした。多くの科学者はHLMIをポジティブに捉えていることがわかります。ただし、回答者の48%は「AIの潜在的な危険性を最小化させる研究を優先すべき」と考えており、AIが持つ危険性については最大限に注意する必要がありそうです。

 これまで人間が行ってきたあらゆる仕事を機会やコンピューター・AIがこなす(しかも人間よりも上手く!)ようになるのは、確かに手の届く未来になっています。この山ちゃんウェブログでもAIが人間の仕事を奪ってしまうという文脈の記事を書いたことがありますが、研究者たちの予測では、AIが現在の人間の仕事の全てをこなせるようになるには1世紀以上かかりそうです。それでも「数学の研究」「外科医」など、ちょっとAIでも手こずりそうな仕事も50年以内にはこなせるようになりそうで、これからの1世紀は人間の仕事がどんどんAIに取って代わられる時代になりそうですね。

2017年6月7日水曜日

「家事」に関する意識調査 ー名もなき家事の存在ー

2017年「母の日」を前に、共働き夫婦の「家事」に関する意識調査 | 共同通信PRワイヤー:

 前回、「なんちゃってイクメン」は育児の「日なた」だけで自分は育児をしていると思っているという記事を書きましたが、実は同じようなことが家事全般でも言えるんだということを大和ハウスが発表していたので、今回はそれをご紹介したいと思います。元記事は、今年の母の日に合わせて「家事」に関する意識調査をした結果で、対象は共働き夫婦で子供のいる家庭、つまり自分のところがまさにドンピシャです。

 最初の質問は、のっけから面白い結果が出ていますが、「あなたの家庭での家事分担の割合はどの程度ですか」という質問です(↓)。同じ事実を見ているはずなのに、夫側がある程度の家事を負担しているつもりでいるのに対して、妻側は夫が家事をあまり負担してくれていないと感じているようです。典型的な数字として一番割合の大きいところを見ると、妻と夫の家事の分担割合を夫側は 7:3 と見ているのに対して、妻側は 9:1 と見ていることになります。

 夫婦の認識にこのようなギャップが出るのはどうしてでしょう。2つ目の質問の結果が、その原因の一端を示してくれています。その質問とは「あなた次の作業を家事と思いますか」というもので、夫と妻ではそもそも何が家事なのかという定義が異なっているのがギャップの原因だというのです(↓)。そして妻のみが認識している家事が多いために、夫は3割は負担してるつもりになっていても、妻から見ると1割しか負担していないように見えるのです。妻のみが認識している家事を大和ハウスは「名もなき家事」と名付けていますが、主だったところは「トイレットペーパーがなくなった時に買いに行く」「靴を磨く」「町内やマンションの会合に出席する」「食事の献立を考える」「飲みっぱなしのグラスを片付ける」「調味料を補充・交換する」「食べ残しの食品を冷蔵庫にしまう」「新聞・雑誌などをまとめて捨てる」など、この仕事を家事として何と呼ぶかと言われると困ってしまいますが、確かに存在する仕事ではありますね。

 では、ついつい見落としがちだけど誰かがやらなければならない「名もなき家事」を誰がこなしているのかというのが次の質問です(↓)。夫が気づきもしない仕事を妻が片付けている様子がよくわかります。


 最後に「『名もなき家事』でイラっとした経験について教えてください」というフリー回答には、妻側から夫側への強い不満が見て取れます。主だったものをいくつか転載させていただくと...(↓)

・夕飯を食べ終え、全ての食器を洗いもう寝る寸前だったのに、夫が夜食にカップラーメンを食べはじめ、使った箸をシンクに置きっぱなしにした事。それぐらい自分で洗えよとイライラした。
・飲み終わったビールの缶を、眠いからというだけで机に置きっぱなしにする。それを片すのは私。
・配偶者が脱ぎ捨てていくパジャマを畳むこと。畳んでおくよう伝えているのに、毎日脱ぎ捨ててあるのでイラっとする。
・靴下がいつも裏返しで、洗濯物を干すときにひっくり返すこと。
・ゴミを机の上に置きっぱなし、入浴後に体を拭いたタオルを床に放置、これを注意したところ気づいた人がやればいいと逆ギレされたこと。
・元の場所にすぐ戻せばいいのに、出しっ放し脱ぎっぱなし。
・ゴミが床に落ちたまま誰も拾わない。片付けたところなのに、おもちゃなどを散らかしっぱなし。脱ぎっぱなしのパジャマを畳む事です。何回言っても脱ぎっぱなしです。
・トイレットペーパーの芯を取り替えたら、その場に置いておかれる。など、些細なことではあるが、捨てればいいのに、ちょっとしためんどくさいことも全て自分に回ってくる。
・名もなき家事をするのは、母や祖母の仕事と決めつけている。
・家族で出かけていて、帰宅後、急いで料理を作り、出来た料理を一人で何往復もして運んでいるときに、いちいち声をかけないと運んでくれないときは、イライラすることが多々ある。
・マヨネーズなどの調味料を使いっぱなしで、冷蔵庫にしまわない時。要冷蔵のものを出しっぱなしにする、神経が理解できない。
・家族が面倒でやらなかったことが、全てこちらにまわってくる。それが当たり前と思っている。

子育てでもそうですが家事全般においても、夫はそもそも家事と認識できていない仕事がたくさんあり、それらの「名もなき家事」を妻が負担させられていて、不満が溜まっている様子が見て取れますね。自由回答だと、特にキッチンでの洗い物関係の不満が多く見られ、妻や子供が眠った後に晩酌をしてグラスや食器をそのまま出しっ放しなんていうのが、一番のヒンシュクもののようです。

 よく考えてみると、会社での仕事でも誰がやるべきかよくわからない「名もなき雑用」っていうのがあると思います。コピー用紙の補充、備品に貼るテプラの印刷、給湯室の掃除、最終退室などの手順を壁に貼ること、...数え上げたらキリがありません。そういう仕事をやってくれるのも女性の庶務の方が多い気がします。前回の育児も今回の家事も、隙間の雑用をケアするのは女性の方が適性があるのかもしれません。そういう性別的な得意・不得意の目線で掘り下げて見ても面白いかもしれませんね。夫側の立場としては、自分には見えていない家事が存在するので、3割やっているつもりが実は1割、5割やっているつもりが実は3割しかできていないことを認識するといいと思います。自己評価ほどはできていないんだということを認識できれば、名もなき家事をこなしてくれてありがとうという妻への感謝につながります。妻側の不満の正体は、自分だけが「日陰の」家事を認識してこなしているけど、誰からも評価されないことだと思うのです。夫はそこにしっかり光を当てて、いつもありがとうと言えれば家庭円満につながるのではないでしょうか。

2017年6月6日火曜日

自己満イクメン、妻は興ざめで離婚 欠けていたのは…

自己満イクメン、妻は興ざめで離婚 欠けていたのは…:朝日新聞デジタル:

 今回は自戒の念も込め、「イクメン」のあり方について考えてみようと思います。元にするのは、毛利光輝氏による朝日新聞デジタルの記事です。「イクメン」という言葉が新語・流行語大賞のトップテン入りしたのは2010年のこと。当時イクメンと言われていた人は当然その後も幸せな家庭を築いているかと思いきや、案外そうでもないケースもあるというのです。

 例えば元記事で紹介されている、2人の子どもがいる会社員男性Aさんは、当時は休日は育児や料理に加えて地域の父親の集まりにも積極的に参加し、いわゆる典型的なイクメンと見られていました。「父親の育児参加を普及させることは社会的意義がある」と、多くの取材も受けたのだそうです。しかしその一方で、共働きの奥様は不満が募り、結局は別居、子どもと離れ離れになり今年ついに離婚に至ってしまいました。Aさんは、夫婦の会話を振り返り「僕は仕事も育児も頑張っているんだから妻に理解してもらえるはず、という感じになっていた。妻に対して感謝やねぎらいの言葉が足りず、妻とのコミュニケーションを優先することがなかった」と振り返っています。毎週のように、週末はパパ友との活動に子どもを連れて行って、「妻も1人になれて気分転換になるだろう」と思っていたのだそうです。しかし「一緒に出かけたかったのを無視していたのかもしれない。イクメンとして活動しながら、かたや家庭を顧みていなかった。自己満足だった」と。

 イクメンに関する著書がある東レ経営研究所の渥美由喜氏は、多くのイクメンと呼ばれる男性が「なんちゃってイクメン」だと見ています。なんちゃってイクメンの傾向は「オムツ替えはするけど、うんちの時はNG」「子どもの病状に応じた、かかりつけの病院を知らない」「育児に費やす時間を他のパパと比べて自慢する」など、ラクな部分しかできていないのに自己評価を高くして自己満足に陥っているという指摘なのです。渥美氏の次の言葉が身にしみる男性も多いのではないでしょうか。

イクメンにふさわしい人ほどイクメンという言葉を嫌う。それは、当たり前のことをやっているという認識があるから。イクメンを自称すること自体、かっこ悪い世の中になってほしい。

 自分のことを振り返ってみると、長男が生まれたのが2009年、次女が生まれたのが2013年ですので、自分たちにとっての育児はちょうど「イクメン」という言葉が一般化していくのと時を同じくしています。自分の場合は、自分をイクメンと思ったことはありません。それは、自分一人で1週間子育ての全部をできるのかと考えてみれば分かります。ミルクを調合して飲ませてゲップをさせることはできても、予防接種の予約やお出かけの時の荷物の準備(赤ちゃんのお出かけは、外でミルクをあげる時のお湯や湯冷ましなど膨大な荷物になるんです)など、育児の深いところではやはり妻でないとできない部分がありました。子供達が小学生と年少組になった今でも、宿題の丸つけやPTA活動、保育園の連絡や行事など、妻でなければという部分がかなりあるのが実態です。幸いにも自分の妻は、子供が生まれた時からウンチのオムツや高熱の時の看病も自分と分け合ってくれたので、育児の「日なた」だけでなく「日陰」も多少は見てきたつもりではいますが、それでも「まだまだ」だと思います。

 振り返ってみると、この「まだまだ」なのがよかったんじゃないかと思います。よく「自分はこんなにも育児に参加しているイクメンだ」という自己満足が高い男性の場合、ウンチのオムツも替えられないのに何がイクメンかと奥様が「片腹痛い」思いをすると聞きます。元記事の渥美氏のご意見などは、まさにそうだと思います。つまり、シングルファーザーで一人で育児の何もかもをやっている方以外には、イクメンなんて言葉は本来は使えないと思うのです。

 自分は、自己満足のなんちゃってイクメンは、全く育児をしないよりもタチが悪いと思っています。つまり、育児には「日なた」と「日陰」があると思うんです。例えば、週末に公園にベビーカーを押していくのが「日なた」なら、その外出の準備をするのが「日陰」。ミルクをあげたり着替えさせたりするのが「日なた」なら、ミルクを買いに行ったり湯冷ましの準備をしたり、山のように出る洗濯をしたり部屋の掃除をしたりというのが「日陰」。つまり、他の人から褒められやすいところ、やっていて楽しいのが「日なた」とでも言いましょうか。なんちゃってイクメンは、そんな「育児の日なた」を奥様から奪ってしまうのです。奥様は「日陰」ばかりになってしまい、かえって不満を募らせることになります。最初のAさんの例がまさにこれ。それなら、奥様にとっては日陰はあっても日なたもある方がむしろマシと言える場合もあるでしょう。自分に置き換えてみれば、「日なた」ばかりを選り好みしてイクメンでございなんて言われた日には、そりゃあ片腹痛いとなると思うのです。

 やむなくシングルファーザーで子育てしている方は別として、やはりなんだかんだ言っても家事や子育ての主役は母親なんだと思います。イクメンで子育ての半分はやっているとか、家事は奥様と分担で半分はやっていると思っている男性は、実は2割くらいしかできていないのです。でも、それでいいんです。半分はやっていると思うくらい家事や子育てをして、それでも実際のところは2割くらいしかできていないのだから、8割もやってくれている奥様の苦労に思いやりや尊敬の念を示すことが大切なんだと思うのです。

2017年6月4日日曜日

大成功を収めたい人がやめるべき、たった1つのこと

大成功を収めたい人がやめるべき、たった1つのこと | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン):

 今回の話題は「仕事ができる」と言われる人がやっていないこと、つまり仕事をする上でのアンチパターンについて考えてみようと思います。元にする記事はJennifer Cohen氏によるものです。

 タイトルになっている「成功」とはビジネス上の成功ということ。本当に仕事ができる人はこれだけはやっていないということがあるのだそうです。Cohen氏によれば、そのアンチパターンとは...ズバリ「マルチタスク」だというのです。上質の仕事をするためには、精神状態が明晰である必要があります。皆さんも仕事がノッテいる時は普段の2割増しで捗るのに対して、ノッテいないときは作業にもミスが目立って結局やり直しなんて経験もあるのではないでしょうか。精神状態をコントロールするための鍵は、マルチタスクの制限です。1日の中で複数の作業をする必要があることは多いと思いますが、それらを同時に行なうのではなく順番に行なうことで、実は仕事の質が向上して結局は全体の時間が削減されるのです。

 「ワン・シング 一点集中がもたらす驚きの効果」の著者、ゲアリー・ケラー氏とジェイ・パパザン氏は、目標達成という最終的な目標に向かってやみくもに作業を進めるのではなく、最優先事項を決めることを勧めています。その最優先事項に取り組むための時間を、優先的にスケジュールに組み込んで行きます。「タイム・ブロッキング」と呼ばれる考え方だそうで、最優先事項=「ワン・シング」をやっつけるための時間をまず決め、その時間だけは他の作業が紛れ込まないようにするのです。

 マルチタスクは精神の動きを鈍くすることは、複数の研究で示されています。同時にいくつもの仕事を行なうのだから生産的だと思うかもしれませんが、私たちの脳が保てる集中力はある一定レベルでしかなく、それを複数のタスクに分散させてしまうと一つも大成功を収められない可能性が高いのです。日本には昔からこのことを戒める言葉がありますよね。そう、「二兎を追うもの一兎をも得ず」。まさにその通りで、本人的にマルチタスクをこなしているつもりでも、実際にはできていないことの方が多いのです。

 私たちの脳が1つのことにしか集中できないことを示す実験に、悪名高い「ゴリラ実験」というのがあります。クリストファー・チャブリス氏とダニエル・シモンズ氏が行ったもので、YouTubeにその動画があったので紹介したいと思います(↓)。

参加者は映像の中でバスケットボールが何回パスされるかを数えるというタスクを行ないますが、もう一つの奇妙な事実には半分もの人が気づかなかったのだそうです。この現象は「非注意による見落とし(inattentional blindness)」とか「知覚的見落とし(perceptual blindness)」などとと呼ばれますが、あることに集中している人は他のことに全く注意がいっていないことがよくわかる実験です。

 ビジネスで成功を収める人はたくさんいて、そういう人たちを見ていると右から左に次々と仕事をなぎ倒しているように見えます。自分たちのような凡人にはその姿が華麗にマルチタスクをこなしているように見え、少しでも近づきたいと真似をしてみるのですが、なまじ普通の人がマルチタスクなどできるわけもないのです。そういうスーパービジネスマンは、次々と仕事をなぎ倒してはいても、決して集中力を分散しているわけではないのです。素早くこなしているだけで、あくまでも同時には1つのことに集中して、シーケンシャル処理なのです。

2017年6月3日土曜日

ポケモンGO:中高年は半数以上が継続 若年層は7、8割が離脱

ポケモンGO:中高年は半数以上が継続 若年層は7、8割が離脱 - 毎日新聞:

 今回は社会現象とまで言われた「ポケモンGO」のその後のお話。ポケモンGOが、鳴り物入りでスマホゲームとして登場したのが昨年7月。それから1年弱経って、40代以上のユーザーはいまだにポケモンGOを続けていますが、若年層はすでに飽きたのか7, 8割がすでにゲームをやっていないとのことなのです。

 この調査は、フィールズ総研が2016年12月14~21日にインターネットで実施したものということなので、ニュース記事に今ごろ取り上げられていますが(この山ちゃんウェブログもそうですね...苦笑)、すでに半年も前の調査結果です。元記事は毎日新聞のオンラインニュースなのですが、日付は2017年6月2日と昨日のニュースです。

 半年前の6~69歳の男女1万1646人のアンケート調査の結果、「ポケモンGO」を遊んだことがある人は全体の22%(男性24%、女性20%)ですが、継続して遊んでいる人はそのうちの40.9%と、6割の人はすでにゲームをやめています。ポケモンGOを遊んだ高校生の中で継続して遊んでいるのは5人に1人(19.5%)、中学生は4人に1人(25.4%)、大学生は3人に1人(33.3%)だけです。一方で、23~29歳は4割(43.0%)が継続して遊び、40~49歳で51.3%、50~59歳は51.6%と半数以上が継続して遊んでいたということです。

 TwitterやFacebookなどのようなSNSも、流行語やお笑い芸人の人気も、最初は新しい物好きの若い世代が飛びつき、そのうちそれに中高年が参入してきてテレビで取り上げられるような広がりを見せた後、大人世代が入ってきた流行はすでに手垢がついたものとして若い世代はそこから逃げ出すというのが定番のようです。毎日新聞のオンラインニュースが、半年も前の調査を持ち出して今頃この話題を取り上げた理由は謎ですが、社会現象と言われる事象には、若者IN・大人IN・若者OUTという流れは普遍的な法則なのかもしれませんね。

2017年6月2日金曜日

仕事は人の幸せにどんな影響を与えるのか(「世界幸福度リポート」より)

仕事は人の幸せにどんな影響を与えるのか――「世界幸福度リポート」から読む | HBR.ORG翻訳マネジメント記事|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー:

 今回は「世界幸福度リポート」を元に、仕事が幸福に与える影響、特に職種によって差があるのかについて考えてみたいと思います。世界幸福度リポート(World Happiness Report)は、ギャラップが2006年以降行っている、世界150ヵ国の人々を対象としたアンケート調査、今回元にした記事は、ヤン・エマニュエル・デ・ネーブ氏とジョージ・ウォード氏によるものです。

 世界幸福度リポートの中で、職種別に生活満足度を自己評価した結果は以下の通りです(↓)。自営業、オフィスワーカー、マネジャー、農業、建設、鉱業、運輸など11種類の職種に分類したとき、一体どの仕事をしている人が幸福度が高いのでしょうか。最初に気づくのは、いわゆるブルーカラーの仕事は、世界のどの地域でも全体的な幸福度が低めです。マネジャー・幹部・公務員・専門職といったいわゆるホワイトカラーの人々が生活の質を10段階評価で6以上と自己評価したのに対して、農業・漁業・林業の従事者は平均で4.5程度です。建設・鉱業・製造などを入れても、傾向は同じです。

 実は日常における個々の感情経験についても、ホワイトカラーの人々はブルーカラーの人々に比べて、微笑む・笑い声をあげる・楽しみを感じるなどポジティブな感情が多く、心配・ストレス・悲しみ・怒りといったネガティブな感情は少なめなのです。そして意外なことに、所得や学歴・年齢・性別・婚姻関係など、幸福度に与える要素は他にもたくさんあるにもかかわらず、それらを考慮に入れてもこの構図はほぼ変わらないということなのです。

 そして、幸福の経済学に関しての知見でまず間違いないのは、失業は心身の健康を損ねることです。これはどの地域でも普遍的で、失業者は就業者より生活の質をかなり低く自己評価し、日々の生活におけるネガティブな感情経験は30%も多いと答えています。収入が多いかどうか、ホワイトカラーかブルーカラーか、社会的地位はいかほどか、それも重要ではありますが、幸福を考える上でそれよりもはるかに重要なのが職に就いているかどうかなのです。さらに悪いことにネーブ氏とウォード氏の分析によれば、人は時が経っても失業状態には順応せず、失業を経験した傷は次の職に就いた後も傷を残すのだそうです。失業期間を経ることは、職をふたたび得たのちにも心身の健全に「傷」を残すようです。もっと言えば、失業した当人だけでなく、そのマイナスの影響は周囲にも影響を及ぼすのだそうで、一度クビを宣告された経験があれば後々まで尾を引いたり、子供がニートだとか親が失業した時は家族全体がマイナスのオーラに包まれてしまうというのは、何となく直感とも一致します。

 次に、地域別に就業者に対して自分の仕事に満足しているか否かをたずねた時、満足している人が満足していない人を上回ったのは、南北アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・ニュージーランドでした。1位のオーストリアでは、驚異的なことに95%もが仕事に満足していると答え、ノルウェーとアイスランドも僅差です。一部の地域でなぜこれほどまでに仕事の満足度が高いのでしょうか。ネーブ氏とウォード氏の詳細調査によれば、予想通り報酬が高い人の幸福度が高く生活と仕事への満足度も高いのですが、ワークライフバランス・仕事の多様さ・新しいことを学ぶ必要性・仕事上の裁量レベルも幸福に関する強力な要素だったそうです。仕事の満足度で上位の国々は、報酬だけでなく満足度の高い仕事環境を提供しているためだそうです。

 今回の議論でわかったことは、まず、失業は本人も周囲にも大きな影を落とすことになるということです。そして、もちろんここのケースで一概には言えないのですが、全体としてはブルーカラーよりもホワイトカラーの職種の方が幸福感が高いということ。薄々は感じていましたが、目を背けてきた事実と言えるかもしれませんね。さらに、仕事の満足度は決して報酬のたかだけでは無いということ、これは実際に仕事をしている人間としても納得感が高い気がしますね。

2017年6月1日木曜日

サイバー攻撃、馬肉混入、製油所爆発に共通する「心理的バグ」

サイバー攻撃、馬肉混入、製油所爆発に共通する「心理的バグ」 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン):

 「バグ」といえば自分たちソフトウェア開発者やプログラマーの敵ですが、今回の話題は「心理的バグ」。この言葉はGoogleで検索してもあまり出てきませんので、おそらく元記事の著者・Alastair Dryburgh氏による造語なのでしょう。正式な言葉でないかもしれませんが、心理的に陥りやすい「思い込み」という意味に近く、ソフトウェアの世界に生きる自分などにとっては「言い得て妙」な表現に感じます。ちなみに「バグ(bug)」というのは、本来は英語で「虫」の意味で、ソフトウェア・プログラムの誤りや欠陥・不具合を指します。昔のコンピューターは、本当の虫が入り込むことで不具合を起こしたことが語源だなんて言われていますが、本当のところはよくわかりません。ちなみに、プログラムの誤りを正すことを、虫を取るという意味で「デバッグ(debug)」と呼びます。

 さて、元記事で槍玉に上がっているのは、イギリスの病院がサイバー攻撃にあった事件、スーパーマーケットチェーンでビーフバーガーに馬肉が混入た事件、そして15人が死亡、170人が負傷した米製油所での爆発事故です。一見するとこれら3つの事件は別の問題のような気がしますが、Dryburgh氏はこれらの事件の原因に共通の「心理的バグ」「思い込み」があると指摘しているのです。

 英NHSの事件は、米マイクロソフトが2014年にWindows XPのサポートを終了した際、一度は結んだ継続サポート契約を、コスト削減からか1年で打ち切ってしまいました。新たな脆弱性を塞ぐパッチが提供されない状態では、サイバー攻撃の被害に遭うのは時間の問題でした。馬肉混入問題は、英テスコが卸売業者に価格を下げるよう常に圧力をかけ、供給元の業者がその圧力に屈して怪しい肉を扱うほど追い込まれてしまうのも時間の問題でした。米テキサス州にある英石油大手BPの製油所(テキサスシティ)で2005年に起きた爆発事故の原因は、上層部からのコスト削減の厳命により、設備メンテナンスの予算が削られ、施設全体の劣化でいずれ事故が起こるのは時間の問題でした。

 これら3つの事件に共通する原因は、安全にかけるコスト削減の結果としてリスクが上がってしまったことと言えるでしょう。コストとリスクを両天秤にかけた時、コストを削減するとリスクが上がり、コストを下げるとリスクは下がるという関係にあります。それは頭では分かっていても、我々にはコストは数字として目に見えるのに、リスクは目に見えないので、ついついリスクの方に目をつぶってコスト削減に行ってしまうのです。リスクが上がることに目をつぶって、自分のところは大丈夫だろうとか今回は大丈夫だろうと、根拠のない楽観論を元に「タカをくくってしまう」わけです。

 実のところ、この「心理的バグ」とでも言える心の動きは人間に備わった防御機能の1つで、長い間人間は今日明日の生存競争に勝たなければなりませんでした。そんな時、将来のことを心配しても仕方がなく、目前の闘争に全力を注がなければならなかったのです。将来のリスクに備えて今から準備するというのは、本来の人間の心にとっては自然でない動きなのだと思うのです。しかしそれでも事故を起こしてしまっては、企業として大きな痛手です。企業は、組織的にリスクとコストのバランスを取って、コスト削減だけに傾かないようにしなければなりません。組織的な対策としては、利益に責任があってコスト削減を考える人とは別に、安全基準を設定・監視する責任者を置くことが考えられるでしょう。そしてその企業が扱うリスクが大きいものであればある程、安全責任者に経営者と同等かそれ以上の権限を与えなければなりません。

 なかには、1人の人がコスト削減と安全リスクの両方の責任を負わなければならない場合があるかもしれません。そんなとき、コスト削減を行なうときは「どこでどの程度安全リスクが高まるか」を自らに問いかけなければなりません。「リスクが高まるかどうか」ではありません。安全にかけるコストを削減すれば、必ずリスクは高まるのです。問題は「どこで」「どのくらい」高まるのかなのです。そして、その結果として起きる最悪の事態をリアルに想像した上で、削減されるコストとのバランスを考えなければならないのです。