2017年12月29日金曜日

世界の美女で2017年を締めくくり

The 100 Most Beautiful Faces of 2017 - YouTube:

 今回は、映画評論サイトのTC Candlerが毎年年末に発表する「世界で最も美しい顔トップ100」の2017年版が発表されたという話題です。日本からも、丹羽仁希さん・小松菜奈さん・石原さとみさん・湊崎紗夏さんの4人が選出されています。今日から年末年始の休みに入る人も多いと思いますが、そんな美女を眺めて2017年を振り返ってみるのも乙なものかと(↓)。


 ちなみに映えある1位はというと、フィリピンとアメリカで女優・モデル・歌手として活躍するリザ・ソベラーノさん。1998年カリフォルニア州サンタクララ生まれの19歳。2015年は6位、2016年は2位と着実に順位を上げて、今年ついに1位の栄冠です。美しい女性ばかり眺めて気分一新、また年賀状書きに勤しむこととしましょうか。

2017年12月28日木曜日

選べることは幸せなこと

ショッピングモールに人が集まる理由(わけ)とは? | METHOD Network 【メソード ネットワーク】:

 今回はブログサークルで切磋琢磨させて頂いているトニーマサキ氏によるメソードネットワークというブログの記事を元に、「選択の自由」と「幸福」そして「努力」との関係について考えてみようと思います。

 元記事では、トニーマサキ氏がショッピングモールに行った時ふと感じた幸福感について掘り下げておられます。実は、自分はある地方都市に住んでいて近くに大型ショッピングモールがあるのでよく子供を連れて訪れるのですが、その時子供を遊ばせたり買い物をしたりして家族と過ごす休日の幸せを感じたことはありましたが、トニーマサキ氏の言われる幸福感はそういう幸せとは少し趣旨が違うのです。ここで言われている幸福感の源は、ズバリ「選択の自由」です。

 ショッピングモールには、衣服店・雑貨屋・食品店・娯楽施設・モバイルショップなどさまざまな店舗が軒を連ね、訪問した客としては何を選ぶのも自由。そしてむしろこちらの方が重要かもしれませんが、何も選ばないのも自由。こういう多くの選択肢から「自分で」選ぶことができるというのが、最も幸福な要素の一つではないかと言われているのです。ナルホド。日常の喧騒のなかで頭の奥底に眠っていた考え方ではありますが、改めて言われるとその通りだと思いませんか。

 例えば、下世話なところで「お金」や「学歴」。もちろんこれらがあるから直ちに「幸福」とイコールというわけではありませんが、人によっては「幸福」を形成する重要なパーツです。現実的には、最低限の食生活が保証されるお金を持っているだけでは心の豊かさは満たされません。多少の余裕があったとしても、デパートで高い服は無理だからスーパーでセール品しか買えないとか、私立の学校に行きたいが経済的理由で公立校にしか進めない、あるいは学校を中退して働かざるを得ないという選択肢のなさ。一方で、経済的に余裕があって、高い服もスーパーのセール品もどちらも選べる状態だけど服の好みからあえてセール品を選ぶ、私立も公立も選べる中から自分の将来の夢のためにあえて公立校を選ぶ、そのまま学校に通ってもいいけど夢の実現の道を早く進むためあえて中退するという選択。やむなく選んだセール品・公立学校・中退と、多くの選択肢があるなかで自分で選び取ったセール品・公立学校・中退とは、天と地ほどの差があるわけです。学歴についても、大手企業も中小企業も選べるなかで、あえて自分の実力を発揮するためにベンチャー企業に就職するのと、学歴がないなどの理由で止むを得ず中小企業に就職するのとは全く違います。そして、選択肢が多いなかで自分で選ぶことができるということこそ、幸福の大きな側面です。

 思えば私たちが努力を重ねる時、大きく二つの努力のスタンスがあることに気づきます。一つはゴールに向かった一直線の努力です。確固たる目指すべきゴールが見えていて、そこに向かって一直線。例えば、プロ野球選手になりたいという夢を実現するため日々練習に明け暮れる球児や、オリンピックで金メダルを目指すスポーツ選手。スポーツの世界に多い努力のスタンスですが、ミュージシャンになりたいとかお笑い芸人になりたいなんて夢に向かって頑張る人たちもやはり同じです。

 そしてもう一つの努力のスタンスが、将来の選択肢を広げるための努力。例えば、受験勉強などがこれに当たります。将来いい大学に入って学歴を得ること、その学歴で就職の選択肢を広げたり、お金に不自由ない状態を勝ち取って、その後の人生の選択肢を広げたい。人がこの2番目の努力をすることができるのは、トニーマサキ氏の言われる「選択の自由」が「幸福」と大きく繋がっているからではないかと思うのです。だって、今の勉強の苦労が将来の幸せに繋がっていなければ、受験勉強なんかできないと思いませんか。我々が「努力」を考える時、なんとなく1番目の努力がピュアで応援したくなるスタンスに見えますが、自分はこの2番目の努力だって十分に誇っていい努力だと思います。

 今回、トニーマサキ氏の記事を読ませていただいて、子供の頃に見たある映画を思い出しました。それは「僕らの七日間戦争」という宮沢りえさん主演の映画です。中学生が廃工場に立てこもって大人と対立するというたわいもない映画ではありますが、TMネットワークの「Seven Days War」という歌が使われていて、こんな歌詞があります。

全てを壊すのではなく 何かを捜したいだけ
全てに背くのではなく 自分で選びたいだけ
Seven Days War たたかうよ
僕たちの場所 この手につかむまで

動画の方はこちら(↓)。思春期まっただ中、親や教師に反抗して廃工場に立てこもった中学生たちのたたかう理由は「自分で選びたい」ことなのです。親や教師が敷いたレール(もちろんその子の将来のことを思って)の上を走ることは、将来的な選択肢の広がりに繋がるかもしれませんが、幼い彼らにはそこまでの遠景が見えません。目の前の選択肢のなさに窮屈さを感じ、自分で選びたいんだと反抗するのです。


 選択肢の多さ。自分で選べること。自分で選んだ道を歩むことができること。普段はなかなか気づきませんが、これはとても大きな幸せです。以前に幸せを噛みしめることで幸福を感じやすい脳を作ることができるという記事を書いたことがありますが、いまあなたが置かれている状況が数多くの選択肢の中からあなた自身が選んだ道なのだとしたら、そのことを思い出して幸せを噛みしめるいい機会ではないかと思います。

2017年12月27日水曜日

人間関係の悩みは「メタ認知」でストレス軽減を

「メタ認知」の力を高めれば、ストレスに強くなる! [ストレス] All About:

 誰もが持っている感覚だと思うのですが、自分の気持ちや考えなど心の動きを、まるで他人の心を分析しているかのように客観的に見ている視点。「メタ認知」というのだそうです。「メタ」という言葉は1つレベルの高い世界のことを指し、プログラマーにとっては比較的よく聞く言葉です。例えば、言語を記述するための言語をメタ言語と言い、XML(eXtensible Markup Language)スキーマはある記述を行なうためのルールを記述することができるという意味でメタ言語の例と言われています。

 今回考えてみたいのはそういったテクノロジーの話ではなく、もっとサイコロジーの話である「メタ認知」です。「メタ」の同じルールに則れば「認知を認知すること」とでも言えましょうか。元記事は産業カウンセラーでストレスガイドの大美賀直子氏によるもので、「メタ認知」の能力を鍛えることでストレスに強くなるというのが主旨です。

 しかし「メタ」という言葉に慣れていないと、「メタ認知」とか「認知を認知する」と言われても頭がこんがらがるだけですよね。大美賀氏の記事を読ませて頂いた上で、自分が思ったメタ認知というのは、最初に述べたように自分の心の動きを客観的に捉えることです。例えば人に嫌なことを言われた時に、自分の姿や心を外部から観察しているかのように「自分は嫌なことを言われてカチンときている」という分析を行なうことです。

 大美賀氏によれば、、普段、何気なくストレスを回避し、健康を維持しながら生きていられるのは、メタ認知が働いているおかげなのだそうです。最もメタ認知ができないのは幼い子供で、例えば気温が低すぎても「自分は寒いと感じている」というメタ認知が働かないので、「なんか嫌!」と泣き叫ぶなんていう反応になるそうです。大人であってもメタ認知の能力が低い人は、悪意がなくてもつい余計な一言で周囲の怒りを買ってしまうケースがあります。嫌だなあと思ってもそれを心の中にとどめておけない人も、やはりメタ認知能力が低いかもしれません。つまりメタ認知の能力が低いと、大人の世界ではトラブルの種になりやすく、「悪い奴じゃないんだけど」という評価をされたり、他人からの悪気がないキツい一言にまともに傷ついてしまったりするのです。

 では、メタ認知能力を鍛えるにはどうすれば良いのでしょうか。トレーニングのポイントは2つあります。1つ目は「モニタリング」、そして2つ目は「コントロール」です。

 まずモニタリングの方ですが、これは感情から行動に直結するのではなく、一呼吸置いて自分の感情を見つめ直してみましょうというものです。例えばある人に苛立ちを感じたとき、感情に任せて怒りを爆発させるのではなく、「自分は一体この人の何に対して苛立っているのだろうか」と考えるのです。以前紹介したアンガーマネジメントに近いかもしれませんが、アンガーマネジメントはとにかく怒りが爆発しそうになっても6秒間待てばその感情がすっと静まっていくというものですが、大美賀氏の言われる「モニタリング」は自分の怒りという感情を客観的に見て分析しようという1段高いレベルが要求されます。これらは相反するものではなく、両方を行なうことで互いに相乗効果をもたらすでしょう。怒りが爆発しそうになったら、とにかく深呼吸して6秒間待つ。その間に、自分はこの人のどこにムカついているのだろうかと分析するのです。

 次のコントロールは、モニタリングした結果にもとづいて、対処行動の目標や計画を設定することです。例えば、自分はこの人の声や話し方にイラっとしているんだとモニタリングしたとしましょう。それならば、声や話し方ではなく話している内容に注目するようにするのです。その人の姿かたちに目を向けるというのもいいかもしれませんし、周囲をイヤな気分にさせるような人とうまく応対できている自分の方に目を向けてみるのもいいでしょう。モニタリングもそれに対するコントロールも臨機応変ですし、人によって異なるでしょう。

 生活や仕事の中で「メタ認知」を意識すると、目の前に生じる不快な出来事にいちいち振り回されず、認知の力で自分の行動を制御することができるようになります。それは、ある種の「セルフコントロール」かもしれません。セルフコントロールができれば、特に複雑化した現代の人間関係のなかで、傷ついたりストレスを溜めたりすることも減らすことができるかもしれませんよね。

2017年12月25日月曜日

「適度な運動」の「適度」ってどのくらい?

The Right Dose of Exercise for a Longer Life - NYTimes.com:

 テレビを見たりネットを見たりすれば、ヘルシーな食べ物情報の次くらいに健康のために適度な運動が必要という情報に出会う気がします。全然運動しないことが健康にマイナスなのは直感的に分かるのですが、一方で運動のしすぎは寿命を縮めるという話を聞いたりもします。激しい運動や普通の人の何倍もの運動をするトップアスリートは、逆に怪我をしたり体を壊したりして、「健康」という意味では逆効果になります。そこで健康には「適度な」運動がいいんだということになるのですが、一体「適度」ってどのくらいなのでしょうか。Gretchen Reynolds氏の元記事は、そのあたりのサジ加減について書かれています。

 実は、健康を保つためには週150分の運動が必要と言われています。今回、アメリカ国立がん研究所とハーバード大学の研究チームの研究で答えが導き出されたとのこと。具体的には、中年を中心とする66万1000人を1週間あたりの運動時間で階層化し、まったく運動を行わない人から、現在推奨されている運動量の10倍以上つまり1週間に25時間以上も運動をする人にグループ分けし、その健康データを過去14年分の死亡記録と比較したのです。

 予想通りではありますが、最も早世のリスクが高かったのは「全く運動しない」というグループです。しかし、意外なことに150分には満たないものの多少は運動をしていたグループでも、全く運動をしないグループに比べれば早生リスクは20%も少なかったのです。そして推奨量ちょうどの150分という運動をしていたグループは、全く運動しないグループに比べ死亡リスクは31%も低く、健康な体で比較的長生きできたそうです。

 じゃあ運動しすぎというグループの方はどうでしょうか。推奨量の3倍ものウォーキングを行なっていたグループの死亡リスクは、全く運動しなかったグループより39%低かったのです。むしろ推奨量ちょうどの運動量よりも、推奨の3倍もの運動を行なっていたグループの方が死亡リスクという意味では低い数字が出たのです。そして、それ以上はまた死亡リスクは緩やかに上がって基準量の運動と同じくらいの数字に落ち着くのだとか。つまり面白いことに、「運動のしすぎはかえって身体に悪い」というのは科学的に証明されなかったのです。

 また、オーストラリアにおけるGebel K,・Ding D・Chey T・ Stamatakis E・Brown WJ,・Bauman AEの6氏の共同研究として出された発表によれば、週に150分運動を行なうのであれば、それがウォーキングのような軽い運動でも十分効果がありますが、さらにそのうち30%を激しい運動に変えると死亡率がさらに9%、30%以上を激しい運動に費やすと死亡率が13%下がるのだそうです。なんとここでも、科学的には激しい運動が死亡リスクを上げるという結果は出なかったのです。

 つまり、週あたり150分以上の運動をすること、それはウォーキング程度の軽いもので十分なのですが、そのうち20〜30分くらい激しい運動をするというのが、最も「適度な運動」ということになります。翻って自分のことを考えてみると、週末に長男と一緒にドッチボールやサッカーをするのが激しめの運動だとしても、毎週150分のウォーキングというのはそれなりに意識しないと歩けない気がします。自分も「適度な」運動を心がけた方が良さそうです...

2017年12月24日日曜日

人生の4つのステージを見事に表した写真

男の人生における4つのステージを見事に表した写真 - GIGAZINE:

 今回は軽い話題ですが、ちょっと皮肉の効いた1枚の写真を紹介したいと思います。それがこちら(↓)。人生の4つのステージを飲み物のボトルだけで表していて、なかなか秀逸だと思いませんか。


 左から順番に、ミルク、ソーダ、ビール、点滴と並んでいて、飲むものが変化していくことが表されています。これを見ると、40代になった自分はもう第3ステージまで来ているんだなと感慨を感じてしまいます。

2017年12月23日土曜日

ARを使った「食べたつもりダイエット」はいかが?

ARで「食べたつもり」 味覚操作しダイエット: 日本経済新聞:

 その昔「つもり貯金」という言葉がありました。買ったつもり、食べたつもり、やったつもりと自分に言い聞かせて少し我慢することで、その分のお金を貯金していこうということです。今回は「つもり」は「つもり」でも、「食べたつもり」ダイエットの最先端がすごいことになっているというので、ここでご紹介したいと思います。これまでも、焼肉やトンカツを食べたつもりでダイエット食を食べるなんていうダイエットもあったでしょうが、味気ないダイエット食と美味しい焼肉やトンカツのギャップが大きすぎて、「食べたつもり」になれずストレスが溜まる一方でした。

 元記事は日経新聞の記事ですが、東京大学先端科学技術研究センターの廣瀬通孝教授のインタビューが骨子をなしています。廣瀬氏の専門は、VR(仮想現実)とかAR(拡張現実)という最先端のテクノロジーですが、それがダイエットとどんな関係があるのかと思ったら、「食べたつもり」の「つもり」をより一層それらしくすることにこういった先端技術が寄与しているのだそうです。

 元記事の記者さんが廣瀬氏の研究室で体験したのは、実際にはプレーンのなんでもないクッキーを食べたにも関わらず、チョコレートたっぷり(その分カロリーたっぷり)のクッキーを食べた「つもり」になれるというものでした。ヘッドマウントディスプレイ(HMD)を装着してプレーンクッキーを見ると、あら不思議、AR技術によってチョコレートがたっぷりとかかっています。実際にクッキーを食べてみると、チューブからチョコの甘い匂いが漂ってくるのです。本当はプレーンクッキーなのに、まるでチョコたっぷりのクッキーを食べている「つもり」になれるのです。廣瀬氏によれば、この装置は「視覚と嗅覚によって味覚を変える装置」だと言います。

 この装置で高カロリーの食べ物を食べたつもりになって、実際のところは低カロリーのものを食べることができればダイエットがツラくなくなる、と聞けば画期的だという気がしますが、ちょっとだけ立ち止まってみたいと思います。今回記者さんが体験したのは、視覚と嗅覚で味覚をダマすというデモンストレーションです。廣瀬氏の専門はVRとかARですので、このデモの中の「視覚」部分です。そして、ある意味もう一つの「嗅覚」部分は最先端のVRやARに比べると、従来からの技術で実現できそうです。例えば、最近の映画館で体験できる4Dと呼ばれる技術は、映画の絵に合わせて振動や風だけでなく匂いも出して臨場感を高めてくれます。そして、私たちが味を感じるのは、味覚よりも嗅覚だという話をよく聞きます。鼻をつまんで食べると途端に味がわからなくなってしまうというのは、有名な話ですよね。だから、「食べたつもり」のリアリティが上がったのは、VRやARといった最新技術よりもチューブから出るチョコレートの香りの影響が強かったんじゃないかという勘ぐりをしたくなりませんか。

 そう思ってネット上の情報を探してみると、味覚より嗅覚の方が味に与える影響は大きいのですが、実際は視覚の方がさらにもっと大きいという情報が見つかります。食事の際の五感による知覚の割合は、なんと視覚が83%、聴覚が11%と大きな割合を占めているのに対して、嗅覚は3.5%で味覚はなんと1.0%と言うのです。しかし、この情報はちょっと種子が違います。この割合は、人間が日常的に情報量として脳がインプットしている割合として、産業教育機器システム便覧で紹介されている数字で、ここにそのものズバリは引用できませんがこちらで引用されていたりします。しかし、この割合は変化すると言われており、直感的にも食事中は嗅覚や味覚が活性化されて割合が高まっていると予想されます。じゃあ食事中はどんな割合になっているのかと言う研究を探してみましたが、あまり引用しやすいものがなかったので、京都光華女子大学で研究されていた結果を参考に見てみますと、視覚や嗅覚を遮断して飲み物を飲んだ時に、どれくらいその飲み物を当てられるかという実験結果があります(↓)。
これを見ると、どうやら視覚と嗅覚は同じくらい味に影響を与えているようです。そして、目隠しして鼻をつまんで飲み物を飲むと、だいたい半分くらいは当てられなくなってしまうという程の影響があるということです。

 ここまで考えると、廣瀬氏の「視覚と嗅覚によって味覚を変える装置」というのはなかなか的を射ていることがわかります。最新テクノロジーを使って視覚と嗅覚を騙すことで、いかにも高カロリーなものを食べている「つもり」で、実際には低カロリーなものを食べることで、ダイエットのストレスから解放される日はすぐそこかもしれませんね。

2017年12月22日金曜日

怒った相手への「謝罪」はスピード勝負

共同発表:「謝罪」の効果を複数の指標で分析し、その有効性を解明―「怒り」の衝動は消せるが、不快感は抑えられない―:

 今回はちょっと古い記事を元にした内容なのですが、面白そうだったのでここに紹介します。主題は「怒り」です。皆さんは相手の怒りを買ってしまった時はどうしますか。自分が悪かった場合はごめんなさいと「謝罪」するでしょうが、たとえ自分が悪くないと思ってもとりあえず相手の怒りを抑えるために「謝罪」する人もいるかも知れません。そんな「謝罪」が有効なのは「怒り」が持つ「攻撃性」の側面だけで、「不快感」の側面に対しては有効ではないということなのです。元記事は、東京大学大学院総合文化研究科の岡ノ谷一夫教授と、JST戦略的創造研究推進事業ERATO型研究「岡ノ谷情動情報プロジェクト」の久保賢太研究員、そして名古屋大学大学院情報科学研究科の川合 伸幸准教授との共同研究として発表された記事です。

 人間の基本的な感情は「悲しみ」「幸福」「怒り」「軽蔑」「嫌悪」「恐怖」「驚き」という7つだと言われていますが、ここのところ俄かに「怒り」という感情が注目を浴びている気がします。「アンガーマネジメント」なんていって、怒り心頭に達したとしても最初の6秒間をなんとかやり過ごすことができればあとは怒りが静まってくるという話をこの山ちゃんウェブログでも書きました。アンガーマネジメントがどちらかというと自分の怒りをコントロールするという趣旨なのに対して、今回の元記事は相手側の怒りをしずめるという方面の文脈です。

 相手の「怒り」に対して「謝罪」が有効なのは何を今さらと思うでしょうが、実はこれまでは「謝罪」が「怒り」の何を抑制するのかは明らかではありませんでした。元記事で言われている研究では、怒りを「脳波」と「心拍」「皮膚電気反応(汗)」で計測し、「謝罪」は攻撃や強い衝動(攻撃性)を抑制することはできるが、不快感は抑制されないことが分かったのです。

 怒りに伴う脳の不均衡を示したこのグラフ(↓)によれば、謝罪を受けた方が受けないよりも、怒りの接近動機の生起を表す左右脳活動の不均衡状態が低下しています。
しかし次の図(↓)では、謝罪の効果は心拍反応では認められたものの、汗の反応では認められませんでした。

 我々は一括りに「怒り」といってしまいますが、実は怒りは「攻撃性」や「不快感」などの成分に分けることができるのです。そして従来は「心拍」と「皮膚電気反応(汗)」はどちらも怒り全般の指標だと考えられてきましたが、上の図でも明らかなように両者が異なる挙動を示すことから、実は異なる指標(つまり「心拍」は瞬発的な「攻撃性」の、「皮膚電気反応(汗)」は継続的な「不快感」の指標)だったんだということがわかりました。そして、「快・不快尺度(PANAS)」と「状態攻撃性尺度(STAXI)」についても、謝罪の効果は攻撃状態を反映する心理尺度にのみ認められ、不快な気分状態を反映する心理尺度には認められなかったのです(↓)。

 先のアンガーマネジメントに話を戻すと、アンガーマネジメントによって6秒間の怒りのピークをやり過ごせば、その場はなんとか収まるものの、不快感がストレスとなって後々まで残ってしまうというところでしょうか。そういう意味では、「謝罪」というのは相手に他するアンガーマネジメントと言えるのかもしれませんね。とにかく相手を怒らせてしまった場合は、すぐに謝罪して瞬発的な「攻撃性」を避ける必要があります。じゃあ、相手に残してしまった継続的な不快感はどうすれば解消できるのか、その辺が次の課題かもしれませんね。

2017年12月19日火曜日

BMIで実現されるテレパシーの光と影

脳が世界を動かす 会話や移動念じるだけで: 日本経済新聞:

 以前にもフェイスブックが脳で操作するコンピュータを開発中だとか、あのイーロン・マスク氏が立ち上げたスタートアップNeuralinkで電極を脳に埋め込んで直接コンピュータを操作する研究に乗り出したなんて話題を紹介しましたが、今回は由緒ある日経新聞に掲載された記事を元に、ふたたび脳で直接コンピュータを操る技術を考えてみましょう。

 脳で考えただけでコンピュータに命令を下すなんてとてもSFチックなことに思えますが、BMI(ブレイン・マシン・インタフェース)と言って、実はいま水面下で開発合戦が繰り広げられているようです。人間がコンピュータから情報をもらったりコンピュータに命令を下したりするインタフェースは、ごく最近までディスプレイとキーボードでしたし、その後スマホやタブレットなどのタッチパネルが主流になりましたが、最近ではAmazon EchoやGoogle Homeのような「声」で操作するスマートスピーカーというインタフェースも注目を集めています。そして、「声」の次は「脳」だと言うのです。ついに人間のモノグサここに極まれり、声を出すのさえ面倒くさくなってしまったのかと思いきや、そう言うことだけでなく、障害などで身体や会話が不自由な人々にとって福音になるかも知れません。つまり、これまで人とのコミュニケーションが不自由だった人も、脳からコンピュータに直接アウトプットすることができれば、コンピュータによって人とのコミュニケーションを円滑に行えるようになるのです。いわゆる「テレパシー」をテクノロジーで実現できることになるということですよね。

 元記事では、BMIの最前線について日本の2つの例を示してくれています。1つ目は、茨城県つくば市の産業技術総合研究所で、長谷川良平・ニューロテクノロジー研究グループ長らが開発した「ニューロコミュニケーター」という装置(↓)です。例えば、全身の筋力が弱まるALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病の患者役の女性が、画面上の「飲食する」「移動する」「気持ち」「体のケア」など8つの選択肢を見て「飲食する」を念じると、画面には次の選択肢として「カレー」「フライドチキン」「ハンバーガー」などが表示されます。これを繰り返すことで、大まかな意思表示から詳細の意思表示を行うことができるというわけです。仕組みとしては、患者役の女性は頭に小型の脳波計をつけていて、選ぼうという強く念じた時に出る特徴的な脳波を検出するようになっているのです。


 もう一つ紹介されているのは、大阪大学国際医工情報センターの平田雅之教授らの研究で、脳に直接電極を当てるタイプのBMI技術です。平田教授は、ALSの患者による予備試験を2013年に実施し、患者の脳の表面に電極を置いて体外とケーブルでつなぎ、ロボットアームやパソコンを操作することに成功しています。現在は、脳波データを無線で体外に伝える完全埋め込み型装置の実現を目指しているのだそうです。どちらかというと、Neuralinkの方式に近いですね。健康な人にとって脳に電極を埋め込むと言われるとちょっと抵抗感がありますが、ALSの患者さんのように病抜いよる不便さをテクノロジーで解消できる場合はウェルカムかも知れません。

 ただ、BMIは手放しで喜べない側面もあります。それはプライバシーの問題。すでにGoogleやAmazonなどの最先端テック企業はユーザーの趣向や思考のデータを集めるのに必死です。検索エンジンでどんな言葉を調べたか、どんな内容のメールを送受信したか、ネットショップでどんなものを買ったのか、スマートスピーカーでどんな言葉を喋ったか...ユーザーのプラバシー情報をこれでもかというくらい収集して、そのビッグデータを武器に人工知能(AI)で解析してビジネスに活かすというビジネスモデルを築いています。ここに最強と言ってもいいプラバシーデータ収集法が加わることになるわけです。そう、BMIは「どんなことを考えたか」ということすらテック企業に収集される危険性が高いわけです。

 正直言って、自分は先端テクノロジーや新しいガジェットなど大好きなのですが、いまだにスマートスピーカーは購入に至っていません。だって、家という最もプライバシーの確保されていて欲しい空間で、自分や家族たちが何を喋るか、GoogleやAmazonに常に耳をすまされていると思うと、なんだか気が休まらないように思うからです。これまで多くのインターネットユーザーは、自らのプライバシーを提供する代わりにGoogleやAmazonなどの便利なサービスを享受してきました。ただそれも、今プライバシーを提供しているなという実感があったものですが、「音声」や「思考」というのは意識して自分から働きかけない行為なので、無意識にプライバシーを提供するというのはまだ抵抗を感じてしまいます。

 とはいえ、病気や怪我によって失われてしまった能力をテクノロジーで補うために、これまで眼鏡や義足・心臓ペースメーカーなど多くの機械が発明されてきましたが、BMIは異次元の発明と言えるのではないでしょうか。大きなメリットは、同時に大きなリスクもはらんでいるということかも知れません。

2017年12月16日土曜日

ビールポスターで懐かしむ古き良きヤマトナデシコ

Vintage Japanese Beer Adverts: Hand-Painted Maidens - Flashbak:

 今回は昭和初期の頃のビールのポスターを紹介したいと思います(↓)。最近ですと、ビールのポスターといえばアイドルか女優の卵の若い女性が水着で爽やかな笑顔を振りまくポスターが多いですが、この頃のポスターは手描きで、それでも面白いのは今と同じくやっぱり女性が一人で描かれているところです。サッポロビールだけ少しお色気路線ですが、キリンビール・アサヒビール・カブトビールは着物でおしとやかな古き良き昭和女性を表しているようですね。

 元記事のPaul Sorene氏は、これらのポスターに女性が描かれるのは、彼女たちがビールを飲むのも注ぐのも好きだからと書かれていますが、日本人的な感覚からすれば、この時代の女性がビールを好んで飲んだとは考えづらく、どちらかといえばビールのポスターは今も昔も男性目線(というか男性をターゲット)で作られているということのような気がします。








AIやロボットに取って代わられる仕事とは

代替可能確率と人口割合から考えるAIと働き方の未来予想図 | アデコ株式会社:

 今回は久々の人工知能(AI)ネタですが、人材派遣や転職エージェントをしているアデコ(株)さんの記事を元に将来的にAIやロボットに取って代わられるだろうという仕事について。元記事は、野村総合研究所 主任コンサルタントの岸浩稔氏によるものです。

 日本はこれから労働人口が減ってくることがわかっているわけですから、コンピューターやAIにどんどん仕事を任せていかないと立ちいかなくなってしまいます。そういう意味では、人間の仕事をAIが肩代わりしてくれるというのはありがたいことですが、じゃあ明日からあなたの仕事はAIにやってもらうからあなたはクビと言われてしまっては心中穏やかでないわけで、まさに「合成の誤謬の逆問題」と言えるかもしれません。

 2016年の野村総合研究所と英オックスフォード大学の共同研究のなかで、日本国内601種類の職業を対象として、職種ごとにAI・ロボットに代替可能な確率を示したのがこの図(↓)です。横軸はその職種に就いている人の数、そして縦軸がAIやロボットに代替される可能性です。


 実は全体的に見たとき、日本はAIやロボットで代替可能な労働人口の割合が世界的にも高いのですが、それは日本では事務職の就労者が多いことが理由です。上の図で見てもわかるように、事務職のAIでの代替可能性は100%なのですから、これが全体的な数字を押し上げているというわけです。一方で面白いのは、専門職です。複雑だったり面倒だったりしても、定型的な業務が多い税理士や公認会計士などの職種はAIに取って代わられる可能性が極めて高く、一方で医師や看護師など臨機応変な対応が必要な職種はまだまだAIやロボットに取って代わられる可能性は低いようです。つまり、専門職は大きく二極化するだろうという予測です。そして、対人間系の仕事である営業や販売などの仕事も、AIに取って代わられる可能性は低そうです。

 言われてみれば当たり前ですが、事務職や専門職でも定型的なバックオフィス業務はどんどんAIに取って代わられます。一方で、非定型で臨機応変な対応が求められる職種や対人間系の職種など、やはり人間にしかできない仕事が残っていくというわけです。

 残念ながら、この図の中に自分のようなソフトウェア開発者というカテゴリーがないので、自分自身がAIに取って代わられる可能性はこの図からは分かりません。自分的には、要件定義や基本設計のようなコンサルっぽい上流工程は人間に残され、コーディングやテストなど比較的単純な仕事はAIやコンピューターにシフトしていくのではないかと予想しているところです。いずれはAI自身がAIを作り出していく世界も訪れるのでしょうが、希望的観測も含めてそれは当分先ではないかと。あなたの職業もAIやロボットに取って代わられる可能性が高いとされているからといって、すぐに露頭に迷うわけではありません。この図(↑)は技術的に代替可能だと言っているだけで、経済性や社会的な側面など考慮されていないわけですから。

 しかし、技術の発展はある水準までは社会の中で蓄積され続け、あるしきい値を超えた瞬間に一気に社会を変えてしまうというケースがあります。近年ではインターネットやスマホなども、それまで蓄積された技術がある時一気に花開いたケースでしょう。人間の仕事を代替するAIやロボットの技術はすでにかなりの技術が蓄積されていますから、一気に花開くまでの時間は思ったほど長くないかもしれません。そうなった場合の社会へのインパクトはとても大きいので、企業は今のうちから徐々に人材シフトを進める等の対応が必要ということなのでしょう。

2017年12月15日金曜日

小中学校の友人はクソなのか

"小中学校の友人"なんてクソみたいなもの | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online:

 少し前のことですが、予備校講師で人気タレントでもある林修氏が、TBS系の「林先生が驚く初耳学!」(2017年11月19日放送)で「小中学校の友人なんてクソみたいなもの」と発言して物議を醸しました。もちろんこの発言は、過激な言葉で視聴者の注目を集め実際のところは深い思いがあってのことですが、時間的な前後関係を考えると、今回の元記事にさせて頂いた中川淳一郎氏の記事がその発言のベースにあるようです。

 確かに自分も今思い返せば、小・中学生の頃の悩みのタネは勉強やスポーツができないことではなく、大抵は人間関係、それも同級生などとの友人関係でした。いや、下手したら高校生や大学生になってからも、それに先輩・後輩など縦の関係性が増えただけで、結局のところ悩みのほとんどは人間関係にあった気がします。中川氏や林氏が主張される「小中学校の友人なんてクソ」という言葉の真意は、今その悩みの真っ只中にいる小・中学生に対して、小中学校での交友関係は長い人生を考えれば大して重要ではない、いじめてくる相手を後生大事にする必要もないし学校から逃げてもいい、というメッセージです。

 自分も小・中学生の頃、世界は家庭と学校それにクラブ活動や習い事くらいと狭く、その狭い世界の中で自分の居場所や地位を確保することに躍起になっていました。世界が狭いがゆえに、その中でツマはじきにでもされようものなら、たとえ媚を売ってでも友人関係を保とうとしていたと思います。村八分という言葉ありますが、狭い世界で生きている場合はこれが最も恐れるべき制裁かもしれません。それは、集団行動主義の日本社会における、代表的ないじめの代名詞でもあります(イマドキ言わないのかもしれませんが、「シカト」なんて言葉がありましたよね)。中川氏や林氏が言われるのは、何も後生大事にその村に止まっている必要はない、外にはもっと大きな世界が広がっているんだ、ということなんだと思います。

 もちろん、友人関係がうまく行っている人にわざわざそれを壊せと言っているわけではありません。いま良好な友人関係が築けているのであれば、その友人は「宝」そのものです。しかし、いま友人関係がうまく行っていない人は、その悩みのタネの友人たちは大人になったら1年に1回も会わなくなる「クソ」みたいなものなのです。悩んでいる小・中学生には、「世界は広い」ということを気づかせてあげたいものですね。

2017年12月14日木曜日

大企業への就職と出世を諦めてはいけないワケ

生涯賃金、年金…課長とヒラの出世格差の現実:日経ビジネスオンライン:

 すでにボーナスが出た会社も多いこの時期、考えてみようと思うのは出世格差の現実。もちろん自分も普通の電機メーカーに勤めるサラリーマンですから、収入面で管理職とヒラの格差があるのは理解していますが、現実論としてそれはどれ程なのかということには目を背けてきた面もありました。元記事は日経ビジネス アソシエ編集部によるもので、人事コンサルタントでセレクションアンドバリエーション社長の平康慶浩氏へのインタビューとして書かれています。

 日本生産性本部 日本経済青年協議会による数字では、2017年入社の新入社員で、課長以上の管理職を目指すとい人の割合は48%で、これは実は現在の30代、40代が新入社員だった頃と大きく変わりません(↓)。じゃあその48%の人がどのくらいまで出世したいかというと、自分と同世代の40代くらいの人が新入社員だった頃は社長を目指すと意気込む人が20%ほどいたにも関わらず、今年の新入社員では約12%。サラリーマン生活で目指すゴールを、比較的手の届きやすいところに置く人が増えているようです。一方でやはり半数くらいの人は、そもそも出世を目指さないと答えているのですが、出世したい人もしたくない思わない人も、現実的な数字を知らずにキャリアプランを決めてしまっているのではないかと思うのです。自分も、シャカリキに出世したいというよりは家庭と仕事を両立した中で出世できれば御の字だけど、出世できなくても生活に困ることなくやりがいを持てる仕事ができれば十分というくらいに考えていました。


 下の2つのグラフのうち、最初の方は年代別の課長の割合ですが、自分と同じ40代前半だと約1割の人が課長職になっていることがわかります。下の方のグラフは部長の割合を示していますが、50代後半で1割ほど。モデルケース的には、40代で課長、そこから10年ほど経って50代で部長になるというのが典型的な出世コースのようです。



 では、出世コースを歩む人とヒラのままの人の収入格差について、現実の数字を見てみましょう。厚生労働省「平成28年賃金構造基本統計調査」をベースに元記事で示されていたグラフ(↓)ですが、最初が大企業の場合、そして2番目が中企業、最後のものが小企業の場合を表しています。やはり大企業の部長・課長ともなると若くても年収1千万を超えてきますが、自分と同じ40代前半の世代の場合で課長と平社員の年収差は1.7倍もあります。ちなみに平康氏によれば、これまでは課長に昇進すると残業代がつかなくなって給料が減る「逆転現象」が起こっていたのですが、働き方改革の影響でそもそも残業を抑制されるので、今後は逆転が減ってくるどころか格差がより開く見込みだそうです。




 これらの数字を元に、有限会社人事・労務で試算された生涯賃金と年金についての数字がこちら(↓)。係長・課長・部長と順調に出世コースを歩む人は、1段階規模の大きな会社の係長止まりの人を上回る生涯賃金が得られるわけです。




しかし、この試算結果を見た自分の感想としては、むしろ、やはり大企業が有利なんだという驚きでした。大企業に勤めていれば、係長止まりだったとしても中小企業の出世コースの人とそれ程差がないのですから。こういう数字って、例えば就職活動の時ってあまり知らないと思うんです。こういう数字をきちんと知った上で、勢いのあるベンチャー企業や中小企業に就職して自分の手で会社を大きくしてやろうという野心がある人の場合はいいのですが、大企業で埋もれるよりも中小企業で出世しようと考えた人は、後悔してしまうかもしれません。

 日本の場合、大企業への就職や出世にこだわることをよしとしない風潮がある気がします。実際、最初のグラフで見たように、約半数の人は出世したいと思わないと答えていますが、たとえ本心では出世したくても、出世なんてどこ吹く風と見せたくてわざとそう答えているのかも知れません。元記事では示されていませんが、就職の時に大企業にこだわらず中小企業でもいいと答える人も、それなりに多いと予想されます。しかし、安易に「大企業でなくていい」「出世しないでいい」と言えてしまうのは、そう決めた自分の人生がその後どうなるかを分かっていないからではないでしょうか。ここではあえてこう結論づけたいと思います。学生の方は「大企業への就職」を、すでに就職している人は「出世」を、どんどん目指して下さいと。

2017年12月11日月曜日

"不良"はなぜモテなくなったのか

なぜ"不良の中学生"はモテなくなったのか | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online:

 今回の話題はちょっと趣向を変えて、なぜ不良の中学生はモテなくなったのかという話題。40代の自分が小中学生くらいの80年代〜90年代は、小学校でモテるのは走るのが速い子、中学から高校生くらいではやはりスポーツのできる子は根強くモテますが、いわゆる不良という枠も一定の「モテ」を示していたような気がします。それが最近では、不良の「モテ」枠がなくなってきているのだとか。博報堂生活総合研究所の酒井崇匡上席研究員による元記事が、その辺の時代の流れをうまく説明してくれています。

 警察庁による「少年の補導および保護の概況」(↓)によれば、検挙・補導された非行少年が最も多かったのは1983年のことです。83年といえば、NHK連続テレビ小説「おしん」の大ヒットや東京ディズニーランドの開園などがあった年で、まだ小学生だった自分は「モテる」ことにまだ意識が及んでいませんでしたが、いわゆる「いい子」よりもちょっと「悪い子」の方がカッコいいという風潮はすでに感じていたと思います。不良の象徴的存在と言われた、尾崎豊氏が「15の夜」でデビューしたのもこの年です。


 その後一旦は減ったものの97年あたりにもう一度ピークがあり、この年は14歳の少年による酒鬼薔薇事件や18歳未満の少年による凶悪犯罪が注目されました。そこからは減少の一辺倒で、近年では不良の数は83年のピークに比べると3分の1以下に減っていることが見て取れます。つまり、自分が子供の頃に比べて不良の数そのものがぐっと減っているのです。いったい不良はなぜそんなに減ってしまったのでしょう。

 酒井氏がこの質問を読み解く視点の一つとして、「子どもと大人の関係性の変化」を挙げておられます。その昔、子どもにとって大人とは反抗すべき敵でした。大人は子どもを力づくで支配しようとし、子どもたちは大人への不信感を募らせ抵抗するという図式だったのです。この大人と子供の敵対関係が、この20年間でぐっと変わってきたのです。博報堂生活総研が実施した「子ども調査」のデータ(↓)によれば、この20年間で大人はずっと子どもに歩み寄り、その結果として子どもにとってもはや大人は敵ではなくなったということが分かります。大人に力づくで押さえつけられたという経験を持つ子どもは今では少数派で、親が話を聞いてくれると感じている子どもも8割を超えています。


昔は大人は子どもを力で押さえつけ、それゆえに子どもは大人に反発するのが常でした。それが近年の少子化の進行によって、子どもは手厚くケアされる対象になったのです。今ではよほどのことがない限り子どもに手をあげなくなり、しっかり子どもと向き合うようになっているのです。

 自分は「少子化による子供の希少価値」がキーワードじゃないかと思います。第二次ベビーブーム(1971〜1974年)に生まれた子供が中学生になるくらいの頃、たくさんいる子どもには希少価値がありませんでした。今よりも大人の権威は絶対的で、極端に言えば子どもは大人の付属物であるかのような扱いだったと思います。忙しい大人は子ども1人1人に向き合う時間はなく、力づくで押さえつけるだけ。子どもたちはそれに反発して不良になっていく、という構図です。それに対して、少子化がどんどん進んだ現代は、子供が少なく「希少価値」が上がっています。大人が多いのに対して子供が少ない。もはや子どもは力で押さえつける存在ではなく、大切に育て上げる対象になったのです。大切にされた子どもは、大人に反抗する理由がなくなってしまったのです。反抗する相手がいなくなった子どもたちは大人しく、優しくなりました。不良は数そのものが激減したことももちろんですが、同世代からの共感も得られづらくなっていき、やがてモテなくなってしまったということでしょう。

ただ酒井氏は、子どもが大切に育てられるようになって親子関係もソフトなものになったので、これで全て安心とは単純に行かないと述べられています。実際のところ、警察庁の統計からは、子どもの家庭内暴力の発生件数は近年、小中高の全年齢で増加傾向にあるとも指摘されているのです。全体的には、子どもの生活は平和になりつつあるのですが、外からは見えにくい家庭内に問題が抱え込まれてしまったり、SNSなどの問題で友人関係が昔に比べてはるかに難しくなりそこに馴染めない子も多いなど、悩みの内容が一昔前と違ってきているという実情があるのでしょう。自分も小学生と保育園児の二児の親なのですが、親の立場からすれば子どもが悩みを抱え込んでしまわないか、中高生になってもコミュニケーションを欠かさないようにしなければならないと予感しています。

2017年12月8日金曜日

本当の働き方改革ってナンだ?

働くことはいつから「苦役」になったのか 〜余暇を楽しむのが人生?(内山 節) | 現代ビジネス | 講談社(1/3):

 最近さかんに叫ばれる「働き方改革」。それまで残業してようやくこなしていた仕事量を、「働き方改革」の名のもと労働時間だけ短縮され残業代を減らされても、何だか納得いかないなあと思う人は多いはず。この納得のいかなさは、「働き方改革」を「長時間労働を廃する」ことと同じだとしてしまっていることが、そもそもの原因かも知れません。今回は、哲学者・内山節氏の元記事がその辺のモヤモヤを分かりやすく切り取っていたので、ここでご紹介したいと思います。

 皆さんは、働くことは楽しいと感じますか、それとも苦しいことだと感じているでしょうか。現代社会では、「労働=労苦」という概念がはびこっています。歴史的には、古代の奴隷労働まで遡ってしまうと確かに労働は苦しみでしかありませんでしたが、中世ヨーロッパなどに書き残された文書によれば、労働には苦しいことも楽しいことも達成感もあって、実は当時の人たちはけっして労働は苦しみだけではなかったそうです。しかし、産業革命が起こり、近代的な労働者が生まれてくると、労働者にとっては自分たちの労働は苦しいと捉える人たちが増えてきます。内山氏によれば、その本当の原因は階級社会によるところが大きいのだそうです。

 労働が楽しいか苦しいか、その捉え方を分ける大きな要因の一つは、その労働を自分の意志で行なっているのか誰かの監視下で命令されて行なっているのかという点です。例えば、イーロン・マスク氏や孫正義氏など世界を股にかける経営者の中には、長時間労働も厭わないという人もたくさんいます。しかし彼らは、仕事を苦しいと感じているでしょうか。聞いたわけではありませんが、答えはノーのはずです。仕事が苦しみでしかなければ、彼らのあのバイタリティと前向きな姿勢が出てくるはずがありません。階級社会の上位にいる彼らは、ほぼ完全に自分の意思で仕事を行なっているので、楽しくて楽しくて仕方がないはずです(体力的な辛さはもちろんあるでしょうが、精神的には楽しいはず、ということです)。それに対して、階級社会の下位にいる労働者は、命令に従い、監視されて労働に従事しなければなりません。その仕事のしかたは、お金と労働力を引き換えているだけであって、こういった労働は苦しいに違いないのです。ちょっと単純化した例ですが、タクシー運転手という職業があります。一方で、ドライブが趣味でどこというアテもなく車を走らせることが好きという人もいます。しかし、乗客の命令に従いその監視の元で車を走らせるタクシー運転手という仕事は、自分の意思で行き先を決められるドライブに比べ、はるかに苦しいはずです。それは、車の運転という同じ作業をしているにも関わらずです。労働(仕事)を楽しいと捉えることができるか、苦しいと捉えるしかないかの分岐点はそこなのです。

 そして20世紀になって、労働が「何かを作り出す」ことではなく「従事する時間」に変わったことも、「労働=労苦」の構造に拍車をかけます。それまではたとえ工場の中でも、職人的な仕事のしかたが主流だったのですが、職人的な労働の内容を分解して単純労働をつなぐという生産方式が生まれました。職人がひとりで一から十までを作り上げるという生産方式から、ベルトコンベアで流れてきた製品のボルトを締めるだけとか部品を取り付けるだけといった単純作業を組み合わせるのです。労働が単純化されれば、管理が容易になり、経営者にとって望ましい効率性の最大化が可能になったのです。しかし、このパラダイム変換は労働者たちには不評でした。自分の腕に誇りをもって働いていた職人たちが、管理された時間労働をするだけの歯車に堕ちてしまったからです。そして、命令のもとで管理されながら歯車として行なう労働は、精神的に苦痛なことこの上ないのです。

 この労働者たちの不満を解消するために、20世紀前半のアメリカでは「余暇」という考え方を生み出しました。それは、労働は苦しくても、代わりに高い収入を得て余暇を楽しむことが人間的な生き方だという提案です。それまで労働のなかにあった誇りや楽しみを奪い去る代わりに、労働の外に楽しみをつくりだそうとしたのです。そして、この考え方が連綿と現代にも息づいているのです。人としての楽しみは仕事が終わってからの時間や休日に見いだし、労働そのものの楽しさは諦めさせる。そして、余暇によって不満のガス抜きをするために、それなりの賃金を支払う。

 この考え方にもとづいた時、社会的な悪とは一体何でしょうか。それは余暇が取れない「長時間労働」と余暇を楽しめない「低賃金」の二つのはずです。苦しさしかない労働時間が人生の大半を占め自由になる時間がないとか、せっかく時間があっても楽しむための可処分所得がないというのは、社会的な二大悪だと言えるはずです。

 そう考えると、「働き方改革」が労働者の長時間労働を廃して余暇を増やすことだけにフォーカスしている「いびつさ」が理解できるでしょう。二大悪の一つ「長時間労働」を廃そうとすれば、多くの企業では効率を上げて労働密度を高めようとすることになります。それはつまり、時間管理が徹底されることであり、労働の苦しさがますます上がることに繋がります。もう一つの「低賃金」にフォーカスが当たっていないという指摘もごもっともですが、本質はそんなことではありません。

 あるべき本当の「働き方改革」とは、労働の苦しさを増大させるものであっていいはずないのです。本当の「働き方改革」とは、労働者を単なる歯車から人間に戻すことではないでしょうか。時間管理されるだけの苦役からは、人間らしい誇りと楽しさのある労働は生み出されるはずはありません。より職人的な労働へ回帰して、労働のなかに楽しみを見出せる、そんな働き方こそが「働き方改革」ではないかと思うのです。

 実際、日本の中にも職人的な労働へ移行しようとしている人たちがいます。それは農業の世界だったりいわゆる職人の世界、ベンチャービジネスの世界だったりしますが、いずれも自分の意思で労働を行なう種の働き方です。確かにそういった職人世界へ飛び込むことは、短期的には低収入や長時間労働に繋がる場合がありますが、そんなことより労働が時間管理でしかないことから自由になることの方がずっと重要なのです。本来は仕事は楽しいものだ、ということをもう一度思い出す必要があると思うのです。

2017年12月7日木曜日

AI兵器というパンドラの箱

「AI・人工知能が変える戦場」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス:

 今回は人工知能(AI)ネタなのですが、結構重い話題で、戦争にAIを適用することの是非に関して。北朝鮮のあたりで一触触発の状況を呈してきていますが、近い将来、AIというテクノロジーが将来の戦場の様相を全く変えてしまうかもしれません。元記事は、NHK解説委員室、別府正一郎解説員によるものです。

 原子爆弾などの大量殺戮兵器とはまた違った意味での究極の兵器。それは、人間の兵士と違って、恐怖も疲れも知らない無敵の「AI兵器」です。もちろん、戦争後遺症(PTSD)を発症することもありません。最近のロボティクス・AI技術の発展から考えると、要素技術は揃いつつありますから、あと数年でAI兵器は現実のものとなる可能性があります。

 ところで、AI兵器(今はまだ軍事用ロボットいう言い方の方が適切かも知れませんが)開発の最前線といえばどこの国でしょうか。世界最大の軍隊を持つ米国だろうと思いきや、意外にもイスラエルがその最前線だという指摘があります。例えば、ストックホルム国際平和研究所によると、2010〜14年にイスラエルが輸出した無人航空機は165機で、米国の132機を抜いて世界一。2008年には、AI搭載の世界初の準自動軍用車を実戦配備しています。もちろん世界を牛耳ろうという米国も遅れを取るわけにいきませんので、両国を中心に世界中を巻き込んだ開発合戦と言ってもいいかも知れません。

 軍事用ロボットは、今のところ兵士1人が1台のロボットを操るというタイプのものが主流のようですが、AI開発で軍と連携するバルイラン大学コンピューター科学部のノア・アグモン上級研究員によれば、近い将来1人が数十台とか数百、数千のロボットを操作する時代が訪れるのだそうです。任務を与えると、ロボットの「群れ」が自動で交信し合って作業を分担し、その任務をこなします。アグモン氏ら世界の研究者が激しい競争を繰り広げているのは、最適な指示を与えるための「意思決定支援ソフト」です。こうなってくるともう、我々がイメージする、運転シミュレータかゲームセンターのレースゲームのような操縦席に座ってロボットの一挙手一投足をリモートコントロールするようなものではなく、Google HomeとかAmazon Echoのような音声操作でロボットの軍隊を指揮するような、そんな世界です。ロボットをリモートコントロールして戦争するのでさえ、操縦者には人を殺戮している実感がないところを、口頭で作戦を伝えるとロボット同士が戦い合うような世界は、もはや殺し合いというよりリアル・ロボット大戦ですよね(↓)。


 そんな世界がもう目の前に迫っている先月、国連のヨーロッパ本部でAI兵器の規制に関する会合が開かれたのだそうです。この会合は、非人道的な兵器を国際的に規制するかどうかを議論するもので、今回はおよそ90か国が代表団を派遣しました。最大の焦点は、人間を殺傷する攻撃を行う判断の主体をAIに委ねることが許されるのか、ということです。つまり、ドローンに代表されるリモートコントロールで人間が操縦する兵器と違って、兵器自らが判断して攻撃を仕掛ける、そんなことが許されるのかということです。

 AI兵器の推進派と反対派の相容れない点は、図(↓)のようになっています。推進派は、AI兵器は人間の兵士より早く正確な判断ができること、人間の兵士を危険な目に合わせなくて済むという点を利点だとしています。しかし一方で反対派は、AIが暴走するリスク、例えばAIは人間が思いもよらない判断を下す場合がありますが、意図的に民間人を殺傷するプログラムが埋め込まれていたというのでもない限り、たとえ民間人を巻き込んでも責任が問われないだろうと考えられています。さらに、人間の兵士を危険な目に合わせなくて済むというメリットは、裏を返せば為政者にとって戦争の敷居が下がることを意味し、今よりも容易に戦争が起きることになると主張します。最後の、倫理的かどうかという点については、個人的には戦争を論じている時点で倫理を持ち出すのは何か違うと思いますが、心を持たないAIが人間の生殺与奪の権を持つということは何とも言えない恐怖がある気がするので、自分はやや反対派に肩入れします。


 国によって事情が違うからか、この議論は収束を見せなかったそうです。途上国が「AI兵器」を幅広く定義して、開発の段階から厳しく禁じるべきだと訴えた一方で、米露の大国は、現時点で予防的な規制を拙速に作るべきではないと先送りしようとしています。


 自分は、AI兵器に関しては「国際的な規制が行われるべき」だと思います。そもそも「戦争」というのは絶対的な「悪」だと思います。AIによって正確に相手を攻撃できるとか、自国の兵士を危険な目に合わせなくて済む、なんていう論理は本能的に受け入れたくないのが実際のところです。極端な話ですが、刃物で殺害するよりも銃で頭を撃ち抜いて殺害する方が、相手は一瞬の苦しみで済む倫理的な殺害方法なのだから、日本でも銃を所持できるようにすべきだという論理は、受け入れたくありません。刃物だろうが銃だろうが、人を殺めることなんで許されるはずがないのです。

 しかし、テクノロジーは放っておくと必ず発展する方へ向かってきます。しかも、そのスピードは加速度的に増していきます。世界の著名な科学者たちは今年8月、AIの軍事利用に反対する共同声明を発表し、AI兵器がひとたび戦場に投入されれば、パンドラの箱が開きもはや閉じることができなくなると危機感を表明しています。十分に議論を尽くす時間は残されていないかも知れませんが、だからと言ってパンドラの箱を安易に開けてしまうことは、何としても避けなければならないと思うのです。

2017年12月5日火曜日

宝くじに当たったら幸せになれるの?

(299) 宝くじに当たったら幸せになれるの?―ラージ・ラグナタン - YouTube:

 夢を買うために年末ジャンボ宝くじを買い求める人も多いこの時期、今回は宝くじに当たった先は本当にバラ色の未来なのかという話題を考えてみようと思います。元記事はTED-Edチームによる動画(↓)で、大方の予想通り、宝くじの当選の向こうには本当の幸せは待っていないと述べています。動画は、テキサス大学オースティン校のビジネススクールでマーケティングの教鞭をとられるRaj Raghunathan氏の講義を編集したもので、「快楽順応」と呼ぶ現象の説明がわかりやすくて秀逸です。


 宝くじに本気で期待しているわけではありませんが、それでも当選して巨額の富を得ることを想像(妄想?)して、幸せな気分に浸った経験はありませんか。例えばリアルの人生がピンチの局面の時、今ここで宝くじに当選したら一気に現状打開どころか幸せの絶頂なのになあ、なんて。しかし、本当に高額当選したとしても、その後もずっと幸せが続くのでしょうか。実は残念なことですが、宝くじに当選した22人のその後の経過を調査した研究によると、被験者の幸福レベルの平均値は、当選から数ヶ月後には当選していない人の平均値以上にならなかったのだそうです。しかも、なかには当選前よりも幸福度が下がった人さえいたというのです、

 一体どうしてこんなことが起きるのでしょう。高額当選で人生バラ色...だったはずじゃないですか。実は、私たちが持つ楽しみ・怒り・不安・悲しみといった感情は、一定レベルを越えると富や社会的地位による影響を受けないことが分かっています。そして、人間の心には自分の感情の平衡を保とうとする性質があり、それは感情を安定させようという力になります。幸福についてもそれは同じで、このことを「快楽順応」と言います。例えば奮発して豪華な食事や旅行を楽しんだり、立派な家を購入したりすると幸せレベルは一気にグンと上がりますが、やがて時間が経つとその環境に慣れてしまい、幸せレベルは基準レベルくらいに戻ってしまうのです。

 厄介な快楽順応ですが、人間の心がこんな性質を持つのは逆のケースに非常に役に立つ性質だからです。例えば、不慮の事故にあって身体に麻痺が残ってしまった場合を考えてみてください。幸せレベルは一気にだだ下がり。世界中で自分は一番不幸だとさえ思うかもしれません。しかし時間が経つと、快楽順応とは逆に幸せレベルは徐々にですがどん底から基準レベルまで戻ってきます。つまり、快楽適応は人生におけるポジティブな変化による快楽を抑制してしまうのですが、一方で逆境から回復させるための力にもなるわけです。

 実際には、快楽順応によってせっかくの一攫千金の幸せが長続きしないだけでなく、幸せレベルをぐっと下げてしまう要因もあります。それは宝くじに当選したことで、逆に人は社会的に孤立することがあるということです。お金持ちになってしまったあなたは、周りの人からお金を無心されるようになるでしょう。そんな時、情に流されてお金を与えてしまうとなし崩し的に当選金は底をついてしまうでしょうし、たとえ固い意志で拒み続けたとしても、断り続けるうちに人間関係がズタズタになってしまう場合もあります。ある研究では、一部の人が意図的に裕福になるよう仕掛けられたモノポリーをプレイしてもらうと、ゲーム上で裕福な人が貧しい人に対して横柄な態度を取るようになったのだそうです。このことから、富は人を意地悪にする傾向があると言われており、宝くじの当選がそれまでの人間関係を破壊してしまうというケースは意外にも多いのだそうです。

 このように、せっかく宝くじに当選しても、短期的には幸せの絶頂に登ることができるでしょうが、長い目で見ると快楽順応によって幸せレベルは基準レベルに下がるでしょうし、むしろ社会的に孤立してしまって基準以下のレベルに下がってしまうかもしれません。しかし、そんな夢のないこと言われると、年末ジャンボも買いづらくなってしまいます。宝くじに当選しても、幸せレベルを高く保つことはできないものなのでしょうか。

 実は、それも不可能ではありません。それはお金の使い道を、次の2つのことを意識して決めることです。まず1つ目は、新しい場所を訪れたり新しい経験をしたりすることによって得られる幸せは、新しい車や家などのモノを買う幸せに比べて、快楽順応が遅いという傾向があるという研究結果が出ています。モノはいくら高価なものを買ってもすぐに慣れてしまい、それよりもっと高価なモノを買う、もっともっと高価なモノを買う...というようにエスカレートしてしまい、それでもやがては快楽順応してしまいます。それよりは、家族や友人と思い出を作ることにお金を使った方が、幸せが長続きするのです(そういえば以前「お金を出すならモノより思い出」という記事を書いたことがありました)。2つ目は、「自分のためにではなく他人のためにお金を使う」ということがあります。他人のためにお金を使った人々は自分のためにお金を使った人々よりも幸福レベルがずっと高かったという研究結果があります。

 心の準備なしに宝くじに高額当選してしまうと、むしろ当選前よりも不幸になってしまうかもしれません。モノよりも思い出に、自分よりも他人のために、という本当に幸せになれるお金の使い方をあらかじめ勉強しておけば、今年の年末ジャンボに大当たりしても心配ないですよね。でも、それって何て言うんでしたっけ。たしか、取らぬ狸の何とやら...

2017年12月2日土曜日

仕事ができない人を全員クビにしたらどうなるか

「仕事ができない人」全員を解雇した結果 仕事の質が高まり業務速度も向上 - ライブドアニュース:

 今回はロバート・ブルース・ショー氏の著書「EXTREME TEAMS(アップル、グーグルに続く次世代最先端企業の成功の秘訣)」(翻訳は上原裕美子氏)を紹介した新刊JP編集部の記事を元に、企業のあり方やチーミングについて考えてみようと思います。

 元記事で述べられているのは、オンラインDVDレンタルに始って映像ストリーミングサービスで成長するNetflix(ネットフリックス)社の例です。自分の会社でもそうですが、どの会社にも仕事ができる人とできない人がいると思います。仕事ができる人からすれば、できない人に足を引っ張られなければもっとパフォーマンスを出せるのにと歯がゆい思いをするかも知れません。その「もしも」を本当にやってしまったのが、Netflix社なのです。もちろん計算づくで実験を行なったというわけではなく、そこには止むに止まれぬ事情があったわけですが、結果的には非常に面白い実験になったのです。

 Netflixがまだ小規模な会社だった時、資金繰りに窮し、仕方なく有能な社員80人を残して、その他の人材を解雇しました。解雇した人員は、全社員の3割にもなりました。いくら優秀な人を残したからと言っても、それまで10人で行なってきた仕事を7人で行なうことになるわけですから、当然人員不足が懸念されました。優秀な7人も雑務や残務に追われてしまって、成長のための仕事に手が回らなくなるのはないかと。

 ところが、この心配は杞憂に終わったのです。むしろ起きたことは逆だったのです。同社CEOのReed Hastings氏は、「誰かの不手際をフォローするための雑務が必要なくなった」と説明しています。薄々は感じていても、それを言ってしまうと身も蓋もないということですが、レベルが高い人同士でないと成立しない会話や信頼関係・協力関係というのは確かに存在します。レベルが高い人と低い人が会話すると(レベルが低い人の方が上司であればなおさら)、低い人に合わせたコミュニケーションになってしまって、できる人のパフォーマンスは抑制されてしまいます。ちょうど、勉強ができる子とできない子が混在するクラスでの授業ができない子に合わせた内容になってしまい、天才を伸ばす教育ができないのに近いかも知れません。Netflixはレベルが高い人ばかりになったので、できる人のパフォーマンスが抑制されず、仕事の質が高まって業務スピードも上がったのだそうです。

 この経験から、Netflix社は極めて大きな教訓を得たのです。同社は、各分野に最高の人材を揃えることに執念を燃やします。「できない人」はもちろんのこと、「凡庸な人」の場所も同社にはありません。居場所が与えられるのは「卓越した人」だけです。Netflix社が社員に求めるのはただ一つ、「パフォーマンス」だけ。同社が社員に与える裁量は大きく、働き方も社員の自由です。ただ、社員に与える「自由」は厳しい要求との引き換えです。Netflix社が社員に対するメッセージは、次の言葉に集約されています。

好きな時間に働いていい、好きなだけ休暇を取ってもいい、最高のパフォーマンスを出し続けるならば。

 この態度を厳しいと見るか望むところと見るかは人それぞれでしょうが、確かに自分の経験上も、できる人同士が組んだ時のパフォーマンスの高さは経験があります。この手の話をする時、だいたい自分を「できる」側に考えてしまうのが傲慢なところではありますが、自分の仕事の領域も自分が仕事ができるいう自負がないとやっていけない世界ですので、ここはあえてできる方へ分類させてください。自分が開発チームを作る時の考え方は、「できる人を活かし切る」ということです。開発チームは、リーダー格だけが社員であとのメンバーは協力会社や外注というケースが多いのですが、メンバーの中でこの人はと見込んだ数人(自分は彼らをエースと呼んだり飛車角と呼んだりしますが)のパフォーマンスを出し切ることを目的に、他のメンバーにはその人が力を出し切るためのサポートをさせる布陣をとります。Netflixのように、できる人だけを残して他の人を切るという極端なことはしませんが、与える役割には明確な違いを作ります。例えば、エースには製品版のコーディング、サポートメンバーにはテストコードやドキュメント作りを任せる、といったやり方をします。アーキテクチャ設計や実装に関する細かい議論をするのは、自分とエースの人たちだけで行ない、サポートメンバーは議論の結果を伝えるだけです。

 もちろん、こういったやり方ができるのは、自分の仕事がソフトウェア開発というできる人とできない人との差がものすごく開く世界だからかもしれません。個人のパフォーマンス差が2倍くらいの業界なら、こういったやり方よりチームの結束を高めてみんなでスクラム組んで頑張って行こうというやり方の方が全体のパフォーマンスが出せるかもしれません。しかし、自分が関わるソフトウェア開発の世界は、個人のパフォーマンス差が100倍とも1万倍とも言われています。極論すれば、エースが1日でこなす仕事をできない人は10年かかるかもしれない、いや一生かかってもできないかもしれない。そんな世界なのです。

 Netflixもテクノロジー系企業のトップ企業の一つですので、こういった極端な方法が成功したのかも知れません。テクノロジーやソフトウェア開発の世界というのは、個人のパフォーマンスの差が他の世界と比べて極端に開くという点で、やはり特殊な世界なんだと思います。日本企業で文系出身の経営者などはその辺の認識がないので、アメリカのテック系企業との差がますます開くのかも知れない、なんて思ってしまいます。

2017年12月1日金曜日

頭の良さと悪さのバランス

東京新聞:科学者は「頭がよくなくてはいけない」。もっともだが、その後…:社説・コラム(TOKYO Web):

 今回は11月26日の東京新聞の筆洗の記事を元に、「頭の良さ」と「頭の悪さ」について考えてみようと思います。元記事では、物理学者の寺田寅彦氏がご自身の著書「科学者とあたま」で書かれている次の言葉が紹介されています。

 科学者は頭が良くなければならない。同時に頭が悪くなければならない。

 頭の良さと悪さを同居させよというのですから禅問答のようですが、ここで言われる「頭の良さ」はもちろん、読み書きソロバンのような基礎学力の上に、学問的な課題に対して仮説を立てるための記憶力や発想力・論理的思考力のようなものを指しているのでしょう。それに対して科学者が持つべき「頭の悪さ」というのは何でしょうか。おそらく、「頭の良さ」に基づいて立てられた仮説を検証する段階、例えば実験を重ねたり資料を集めたり論理的な裏付けを取ったり。そういう地道な作業を「愚直に」行なえるための、根気というか真面目さというか馬鹿正直さというか。そういうものを言っているのだと思います。

 つまり科学者にとって必要な「頭の良さ」と「頭の悪さ」は相反するものではなく、ここで言う「頭の悪さ」の反対語はむしろ「要領の良さ」「小利口さ」「ずる賢さ」みたいな言葉になるでしょう。元記事では、「頭の良さ」と「頭の悪さ」が両方必要であるにも関わらず、最近「頭の悪さ」が失われているんじゃないだろうかと指摘されているのです。

 「(いい意味での)頭の悪さ」が失われている。その槍玉に上がっているのが、製造業で相次ぐ品質検査をめぐる不正問題です。自分もある電機メーカーに勤めているので、こういったニュースは残念ですが、他人事ではなく自分のこととして身を引き締めなければならないところです。日産自動車、神戸製鋼、三菱マテリアルグループなど、次々と品質保証の問題が出てきています。

 これらの品質問題に共通しているのは、企業にとっての「頭の良さ」の象徴である「効率向上」「納期厳守」「収益拡大」が幅を利かせすぎていることです。もちろん企業経営を考えた時、「効率向上」「納期厳守」「収益拡大」は絶対的な正義です。しかし、大型の受注を勝ち取った人、多くの利益をもたらした人、納期を守ってプロジェクトを完遂した人のような花形に比べ、時間をかけて愚直に品質検査をし不良ゼロを達成した人に対し、企業はあまり評価を与えてきませんでした。彼らが達成した「不良ゼロ」ということを過小評価して、むしろもっと品質検査の効率向上すべきだとかコスト削減すべきだとか。そうして、品質保証に愚直に取り組む人を軽視し、効率よく手を抜いてコスト削減する人ばかりになった結果がコレじゃないでしょうか。

 実は自分の勤める会社では、従来は設計部門が設計・製作・試験もした製品に対して、品質保証部門が独自に試験を行なって出荷するという仕組みになっていました。効率向上を考えれば、設計部門で試験を行なうのだから品質保証部門でまた試験するのは頭がいいことではありません。しかし、作った人が行なう試験はどこかゆるい試験になりがちですので、品質保証部門はユーザー視点に立った試験や意地悪試験などと言われる試験を行なって、品質保証部門が合格を出さないうちは出荷できないという強い権限を持っていました。設計部門は理不尽とも思える品質保証部門の要求に泣く泣く対応させられるのですが、代わりに品質保証部門が合格を出した製品は、その後不具合が見つかったとしても全て品質保証部門が責任を取ります。品質保証部門は、出荷後の不具合は全部自分が責任を負わされるのですから、効率やコストなんか度外視で必死に試験をし、少しでも変なところがあると強権を発して設計部門に修正させます。この仕組みが品質保証部門の「いい意味での頭の悪さ」を引き出して、高品質を保ってこられたのだと思います。

 それが最近「効率向上」と言い出していて、品質保証部門は独自の試験を行わずに設計部門の行なった試験内容を確認するという「ドキュメント検査」なる方式に変えられてしまいました。それまで設計部門と品質保証部門で同じ試験を行なっていた場合もあるのですから、効率向上を考えれば1回で済ませるのが「頭のいい」ことだと考えたのかもしれません。しかし、設計部門にいる自分としては、これは「悪い意味で」の頭の良さだと思います。設計部門が納期やコストの縛りを受けて行なう試験というのは、やはり品質保証部門が縛りなしに「愚直に」行なう試験に比べて緩くなりがちなのです。自分は、今後の製品が「いい意味」での頭の悪い試験を行なわず出荷されてしまうことに、密かに身震いしているところなのです。

 働き方改革とか効率向上とか、聞こえのいい言葉を並べて小利口さを追求するのもいいでしょう。しかし、メーカーの生命線である品質の最後の砦は「愚直さ」を持つ人たちが支えていることもまた事実なのです。

2017年11月28日火曜日

「バックアップが壊れているか復元対象のiPhoneと互換性がない」の原因

iTunesのバックアップが壊れている?互換性がない?復元できない時の対処法 | ルート40:

 今回は自分のための覚書きという意味も含めて、iPhone関連の話題。実は自分はスマホはiPhoneなのですが、長い間使ってきたiPhone 6 Plusから、つい最近iPhone Xに機種変更しました。iPhoneからiPhoneへの乗り換えは比較的スムーズ...かと思いきや、少しハマったことがあったので、それを残しておきたいと思います。

 そのハマったことというのは、バックアップからの復元なんです。iPhoneの買い替えの場合、パソコンを持っている人は、iTunesを使って古いiPhoneのバックアップを取り、そのバックアップを新しいiPhoneに復元するということをやると思います。ちなみにその時、GoogleやAmazonなどのアカウント情報も引き継ぎしたい場合は、バックアップを暗号化するようにすれば(↓)アカウント情報も健康情報も引き継ぎできるというので、[このコンピュータ]・[iPhoneのバックアップを暗号化] を選択して [今すぐバックアップ] ボタンをクリックして、古いiPhoneのバックアップを取りました。

 そして、新しいiPhoneにつなぎかえて、先ほどのバックアップから復元しようとしました(↓)。

 すると、なんとエラーが出てしまいました(↓)。「バックアップが壊れているか、復元対象のiPhoneと互換性がない」というエラーなのです。あれ、おかしいなと思って、もう一度古いiPhoneにつなぎかえてバックアップを取り直したり、暗号化しないでバックアップしたりしてみましたが、やはり同じエラーが出ます。

 バックアップファイルが壊れることはないとは言いませんが、3回連続でファイルが壊れるのも考えづらい。となると、互換性がないということになるけど...と考えたところで、はたと思い当たりました。

 実は最近、古いiPhoneのiOSバージョンアップをしたのでした。そのため、古いiPhoneの方がiOSのバージョンが新しく、新しいiPhoneの方がiOSが古いという逆転現象が起きていたのです。気の利いたシステムはだいたい後方互換性があるように作られているので、古いバージョンのバックアップを新しいバージョンに復元することはできますが、さすがに新しいバージョンのバックアップを古いバージョンには復元できないということなのでしょう。

 そこに気づいたので、新しいiPhoneをiTunesに繋いでiOSを最新バージョンにバージョンアップをした上で、もう一度復元の操作をしてみると...うまく行きました。気づいてみれば当たり前なのですが、システムやプログラムを作った経験がない人だと、意外とこんなことに気づかないかもしれませんよね。

2017年11月27日月曜日

子どもに手書きを教える必要があるか

Do we need to teach children joined-up handwriting? - BBC News:

 今回はBBC Newsに掲載されたDavid Molloy氏の記事を元に、フリック入力やキーボード入力が全盛の今の時代にあえて手書きを覚える必要があるのかという話題です。自分の感覚だと、そりゃ必要でしょと思ってしまいますが、日本のように表音文字のひらがな・カタカナに加えて表意文字の漢字がある言語と違って、アルファベットだけしかない言語の場合は事情が違うんだろうなというのがよく分かります。「手書き」とは言ってますが、どちらかというと「筆記体(↓)」のことを言っていて、ブロックを書ける必要はあっても長い文章をスラスラと書くための筆記体はもう教えなくていいんじゃないかという風潮があるようなのです。

 実際、アメリカのインディアナ州のように、完全に筆記体離れをする州や、フィンランドのように手書き文字の練習を段階的に終了している国や地域があります。筆記体の練習をさせるくらいなら、むしろ「タイピング」や「コーディング」といった技術を習得させるという方針も増えてきているようです。

 しかし一方で、手書きには大きな学習上の効果があるとする論文も発表されています。Aix-Marseille大学の研究者が2005年に発表した論文によると、3~5歳の時期における手書きとタイピングの違いは凄まじく、書いたものの内容をよく覚えるという点で手書きが圧倒的に優れていたそうです。また、2012年Indiana大学とColumbia大学の調査結果でも手書きした子どもは読書などで使用する脳の領域が活動的になったものの、タイピングを行なった子どもたちの脳は活動状態を示さなかったそうです。研究者たちは、「書く」という動作が「何かを読む」という行為を学ぶ助けになる可能性があると考えているようです。研究論文の著者のひとりKarin H.James博士は、「体を動かして何かを行なうことは、認知発達において大切なこと」と語っています。

 2014年のUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)研究でも、キーボードとペンの違いが指摘されています。この研究では、被験者の学生を紙とペンで講義をメモするグループとノートPCでメモするグループに分け、学生たちが講義の内容をどのくらい覚えているかをテストしたところ、紙とペンでメモする学生の方が深いレベルで情報を処理する傾向があったそうです。この研究に携わったJames博士は「誰かが話をしている時に手書きでメモする行為は、相手の言葉を自分なりの言葉にしようとしている」と語っています。

 この言葉は、とても示唆に富んでいると思います。手書きでノートを取るという行為は、相手の説明をそのまま文字通りに記録するのではなく、一度自分で咀嚼してから自分の言葉に直して記録しているということなのです。そして、人は誰かに言われた表面的な言葉よりも、自分の言葉で自分に語りかけた方が強く記憶に刻み込まれるということなのでしょう。一方で、タイピングで作られた講義ノートは、速く完成するものの講義の内容をそのまま記録したものになる傾向があるそうです。つまり、講義を聞きながら手書きで書きつけているのは「ノート」、タイプしてPCにインプットしているのは「議事録」ということなのかもしれません。(一方的に手書きが良いかのように書いていますが、相手の言葉をより正確に残す「議事録」が目的であれば、タイプの方が速くて正確。ようは、目的次第ということなのでしょう)

 もちろんアルファベットだけで書ける言語とひらがな・カタカナ・漢字がある日本語を十把一絡げに比較するわけにはいきません。しかし、自分の長男は今年2年生で、毎日漢字の書き取りを頑張っていますが、やはり漢字は読めるだけではまだあやふやで書けるようになって初めて身につく気がします。自分は、大人になってからタイピングで入力する機会が増え自動変換に慣れてしまったので、いざ漢字を書こうと思った時にとっさに書けなくなってしまうという経験がありますが、みなさんいかがですか。もう手書きしないなら書けなくなってもいいという意見もあるかもしれませんが、何だかそうは割り切れない気がします。

 ソフトウェア設計とかプログラミングの仕事をするときも、自分の場合はタイピングは最後の設計書を書いたりプログラムを書いたりするアウトプットの時のみで、仕様を考えたり実現手段を考えたりする過程は、ホワイトボードやノートを使います。何らかの新しい技術を勉強しようというときも、ノートを使って頭にインプットしていきます。そう、自分の経験と感覚から言えば、「アウトプットはタイピングが適していて、インプットは手書きが優れている」という気がします。確かにフリック入力やキーボード入力全盛の時代ではありますが、まだまだ子供の頃にたくさん手書きした経験というのは必要じゃないかなと思うのです。

2017年11月25日土曜日

大企業で働くべき7つの理由

7 Reasons Why You Need To Work For A Big Company:

 今回は大企業で働くことにもメリットがあるというお話。日本はよく大企業志向が強いと言われていて、スタートアップやベンチャー企業にはあまり人材が集まらないと言われています。一方、ベンチャーで働くことに抵抗がなく、自ら起業する人も多いとされるアメリカでも、大企業で働くメリットを見直す意見もあるようです。今回の元記事は、IDR Solutions社のCEOであるMark Stephens氏が、以前に働いていた大企業でのキャリアを元に大企業で働くメリットを7つ挙げられています。

(1)驚くほど学べる
 すでに成長してしまった大企業は退屈に思えるかもしれませんが、大きくなった会社にはそれなりに理由があります。いいアイデアもイマイチなアイデアも玉石混淆で溢れていますが、反面教師も含めて自らの成長のためのリソースがそれだけ豊富にあるということです。

(2)優秀な人と一緒に働ける
 (1)とも共通しますが、人材豊富ということはそれだけ優秀な人も多く、彼らの手腕を間近に見ることができるのです。将来自分で起業する人も、優秀な人というのがどういうレベルなのかを知っておくことはとてもメリットになります。

(3)トップクラスの人脈が築ける
 やはり大企業の看板の効果は凄まじく、社内にも社外にも人脈を築くことができます。将来的に起業する場合も、その人材はメリットになるでしょう。

(4)大企業ならではの特典が充実
 大企業の場合、スキルアップのための研修制度が整っていたりMBAを取るための資金をサポートしてもらえたりといった、中小企業にはない特典があります。他にも社宅や福利厚生が充実していたり、給料が同じでも大企業にいるだけで得られる特典があります。

(5)政治も上手になる
 どの企業にも、社内政治ともいうべき派閥争いや権力闘争などがあります。その点、大企業で身につけた人付き合いや社内政治術があれば、どんな企業に行っても大丈夫です。

(6)努力は報われる
 スタートアップやベンチャーなどの場合、全くの荒野を耕していく状況に似ていて、時間をかけて一生懸命やった仕事が報われない場合がありますが、大企業の場合はある程度道筋が整っている上に自分の仕事を乗せることができます。それはつまり、努力にだいたい比例した形で成果が得られるということで、キャリアに疑問を持たずに済みます。

(7)ビジネスの基礎が身につく
 大企業とは言っても、それを構成するのは小さなビジネスの積み重なりです。スタートアップやベンチャーのビジネスを、たとえ失敗しても会社が傾く心配をしないで済む安全な庇護の素で行うことができると考えれば、将来的に企業したりベンチャービジネスに身を投じる時のよい予行演習になります。

 自分もどちらかといえば大企業に属する部類の会社にいますが、確かに大企業は若い時に勉強させてもらえる余裕があると感じます。例えば、プロ野球のドラフト会議で即戦力を見込まれて指名される選手と将来を見込んで指名される選手がいますが、ベンチャーやスタートアップ企業の場合は即戦力しか指名する余裕がありません。入団一年目で10勝を上げるような活躍が期待され、計り知れないプレッシャーがかかります。それに対し、大企業というのは将来性のある選手を指名して育てる余裕があります。育てる技術も持っていますし、施設や環境面も整っています。育成に定評のあるコーチ陣が揃っていて、照明付きのグラウンドもピッチングマシン、疲労回復用のマッサージや温泉施設も整っているのです。

 そういう意味で、入団1年目から10勝できるとか3割打てる自信があるのなら、スタートアップやベンチャー企業はとても魅力です。あなたの手腕が存分に発揮され、その成果も分かりやすく現れます。一方で、即戦力で活躍というにはちょっと自信がない人こそ大企業向きです。最初から会社に貢献できなくても、しっかりスキルを磨いて数年後に貢献できる人材に育てばいいのです。

2017年11月24日金曜日

いいプログラマーの条件は「怠けるために努力できる」こと

Why Good Programmers Are Lazy and Dumb:

 今回は久しぶりにプログラマーの生態に関する記事なのですが、元記事はPhilipp Lenssen氏によるブログ記事です。実は、この山ちゃんウェブログでは、以前にもプログラマーの三大美徳は「不精・短気・傲慢」という記事を書いたことがあるのですが、こういう自虐的でナナメな態度というのは、プログラマー特有の表現な気がします。自分も年を取ったとはいえ、一応まだプログラマーの端くれでもありますから、今回のLenssen氏の元記事もあくまでも「ネタ」というか、本当の怠け者・本物の馬鹿ということではないと信じたいところです。

 さて本題に戻って、一般的には仕事で優秀な人というのは、真面目によく働き頭の回転も早そうですが、プログラマーに限ってはそうではなく、むしろ優秀なプログラマーほど怠惰で愚かでなければならないというのがLenssen氏の主張です。自分としては「愚か」の方は賛成できかねるのですが、「怠け者」という方は、実は自分が思う "いい" プログラマーの条件とも合致します。もちろん、ここで言う「怠け者」も本当の意味の怠け者というか仕事をサボったりするという意味ではなく、「怠けるためにだったら全力で努力できる」、そんな資質を持っている人がプログラマーに向いていると思うのです。「怠けるために努力する」というのは極めて矛盾を抱えた表現ですが、つまりは「将来の自分が楽になるための努力を今できる」という意味なのです。

 たとえば、プログラマーの格言で「バグ(不具合)を出さない最大のコツはプログラムを書かないこと」という言い方がされます。また禅問答のような表現が出てきましたが、プログラマーなのに「プログラムを書かない」という矛盾は、誰かが書いたプログラムとか昔自分が書いたプログラムを使いまわして(再利用して)、新しいプログラムをできるだけ作らないという意味です。たくさん文章を書くと誤字脱字や論理的な矛盾が入り込んでしまうように、たくさんプログラムを書くと「バグ」と呼ばれる間違いが紛れ込んでしまいます。このバグを見つけて修正する(デバッグと言います)のは極めて大変で、そのプログラムを色んな条件で動かしてテストしたり優秀な同僚にチェック(「レビュー」と言います)してもらったりするのですが、なかなかバグを根絶することはできません。十分テストしてもう大丈夫と思ったプログラムがユーザー環境で動かした途端バグが見つかるという経験は、プログラマーなら誰しも経験しています。出来上がったプログラムを使われれば使われる程バグが見つかり、その度に修正(「バグフィックス」と言います)していくのですが、一度世に出したプログラムの面倒を見る仕事というのは、プログラマーにとって極めて大変で後ろ向きな仕事なのです。しかし、地道なバグフィックスを重ねていくと、やがては新しいバグが見つからなくなる時がきます。このことをプログラムが「枯れる」という言い方をします。「枯れる」というと何だがネガティブな表現のような気がしますが、そうではなく、もうバグはない(だろう)と言える状態のことで、プログラマーが後ろ向きの仕事から解放されるメデタい瞬間です。

 つまり、「枯れたプログラム」にはもうバグがないので、枯れたプログラムばかりを集めて作られたプログラムは、極めてバグが出にくい(=品質の高い)プログラムになるのです。これが「バグ(不具合)を出さない最大のコツはプログラムを書かないこと」の真意で、枯れたプログラムをできるだけ再利用することで高品質なプログラムになるということなのです。そして、高品質なプログラムはユーザーにリリースした後もバグがほとんど出ないので、世に出したプログラムの面倒をいつまでも見る必要がなくなり、プログラマーとしては極めて「楽ができる」ということです。この「楽」をするために、日頃から誰かが苦労して枯らしたプログラムを集めたり、自分が枯らしたプログラムを再利用しやすい(使いまわしやすい)形に保守しておく、もっと言えば新しいプログラムを書くときには別のプロジェクトに再利用しやすいような作り方を最初からしておく。そういう「将来の自分が再利用するための枯れたプログラムをたくさん持っていること」、そのための努力を惜しみなくできること、これが優れたプログラマーの条件だと思うのです。


2017年11月23日木曜日

Twitterの「#クソ物件オブザイヤー2017」が酷すぎ

嘘だろ。Twitterの「#クソ物件オブザイヤー2017」が酷すぎる - まぐまぐニュース!:

 今回は軽めのネタですが、まぐまぐニュースのこのネタ。普通ではありえない酷い賃貸物件ばかりをツイートして競い合うハッシュタグ「#クソ物件オブザイヤー2017」に投稿された物件がどれもヤバいという話題です。

 まずは誤字脱字系。最初、この攻撃的で自虐的な表現は一体何を書きたかったんだろうと考えてしまいましたが、「広々」だったんですね。でも「2」は何だろ。ワープロ全盛ならではの誤字。自分も、このブログの中でワープロ打ち間違いは何度もやってしまっていますので、人のことを言えませんが。
次は罪のない間違い。この家がどん兵衛かっていうくらい出来立てホヤホヤ...なんてことはもちろんありません。
  誤字脱字系の最後はこちら。いわゆる事故物件なのでしょうが、これそのものには問題なさそう...と覆っていると、最後の備考が衝撃的。「前」と「全」の大きな違い。これもワープロならではですね。

 誤字脱字は部屋そのものに罪はないわけですが、次はいわゆる間取りが酷い物件。最初のこれは、何とも細長い。でも一番奥はトイレですよね、コレ。ある意味奥行きのある大きめのトイレといった感じでしょうか。
  次もトイレネタ。どの部屋からもトイレにアクセスできて便利...ってなるかなあ。他の部屋に行くときは必ずトイレを通って行くということですからね。
  酷い間取りの最後は、何だか意味がわかりません。なぜ、エレベーターを取り囲むような作りにしたのでしょう。洋室もLDKもひたすら狭く感じる気がするんですが。さしずめ、閉塞感いっぱいのデザイナーズマンションといったところでしょうか。

 最後の一つは、シャレなのか何なのか。十三は大阪にある「じゅうそう」と読む待ちなのですが、決してゴルゴサーティーンではありません、ゴルゴじゅうそうです。自宅を説明するのが恥ずかしくなる物件ですね。

2017年11月22日水曜日

幸せを感じやすい脳をつくるトレーニング

How to Build a Happier Brain - The Atlantic:

 今回はThe Atlanticに掲載されているJulie Beck氏の記事を元に、「幸せを感じやすい脳」について考えてみます。元記事では、Rick Hanson博士による著書「Hardwiring Happiness: The New Brain Science of Contentment, Calm, and Confidence」が紹介されていて、この本の中でHanson博士が展開する「幸せを感じやすい脳をつくるトレーニング」が秀逸です。そう、「トレーニング」なのです。先天的なものではなく、後天的なトレーニングで幸せを感じやすい脳を作ることができるというのです。

 直感的にも、同じ経験から幸せを感じるか不幸を感じるかは人によって違う気がします。どのくらいの幸せを感じるか、どのくらいの不幸を感じるかも、人によって違うことでしょう。少し前に「どうせ」と考えるよりも「どうせなら」と前向きに関わることでポジティブな循環が生まれるという記事を書きましたが、まさに「どうせなら」大きな幸せを数多く感じる人生を送りたいものです。そして、それは「トレーニング」によって可能だとHanson博士は主張されているのです。

 不幸よりも幸せを感じたい、どうせなら大きな幸せを感じたい。実はその時、私たちの前に立ちはだかる大きな壁があります。それは、心理学的に「ネガティブバイアス(Negativity bias)」と呼ばれるもので、私たちは幸せよりも不幸を、成功よりも失敗のことを強烈に記憶に刻み込みます。人がこの特徴を身につけたのは、進化の過程における生存競争を生き抜くためだと言われています。大昔、人は捕食者の脅威や自然災害に晒されてきました。そういった生命を脅かす存在から身を守るため、人は良い情報よりも悪い情報を記憶に刻み込んで「臆病」になったのだと。しかし現代社会では、このネガティブバイアスは厄介な名残りですよね。科学技術の目覚ましい進歩によって、生活は相当豊かになっているにも関わらず、相変わらずストレスや不安、孤独感を抱えるようになってしまっているのですから。

 Hanson博士が唱える「幸せを感じやすい脳をつくるトレーニング」は、このネガティブバイアスを跳ね返すための「Taking in the good」なのです。日本語にすれば「幸せを噛みしめる」とでもなりましょうか、ある経験を幸せだと感じたとき、意識的に「自分は幸せだ」と言い聞かせるのです。日常生活の中で出会うさまざまな良いことやポジティブな体験をしっかりと意識することで、脳に染みこませるという方法です。時間は10秒〜30秒と短くても構いません。

 脳科学の世界では、何度も繰り返し行われた思考パターンはニューロン(神経細胞)の繋がりが強化され(ニューロンの繋がりの構造を「シナプス」と言います)、少ししか行なわれない思考パターンはつながりが薄れていくと言われています。何度も同じ思考パターンを繰り返すことで、既存のシナプスが刺激されたり新しいシナプスが作られたりするのです。しかし、人は自然にしていると、ネガティブバイアスによって不幸が反芻され、脳に染み込んで行ってしまいます。それに抗うためには、意図的に幸せを反芻して噛みしめることで幸せを感じるシナプスを強化し、ちょっとしたことでも幸せを感じやすい脳をつくることができる、というのが博士の主張なのです。

 「幸せを噛みしめる」ということは「ポジティブシンキング」とは異なります。ポジティブシンキングは、事象をどう捉えるかということであって、時にはネガティブな情報から目を背けることを意味します。そうではなく、人が生きていく上でポジティブなこともネガティブなことも起こりますが、ポジティブなことをしっかり噛みしめて(反芻して)しっかり脳に刻みつけましょうということです。そうすることで、幸せを感じる脳の回路が強化されるということなのです。

 Hanson博士は、日々の生活の中で特に「良さを噛みしめる」べき要素として、「安心感」「満足感」「絆」の3つを挙げられています。安心感を噛みしめることで、たとえ目前の仕事や生活が困難であってもまっすぐに向き合えるようになります。満足感を噛みしめると、喪失・妨害・失望というようなネガティブな事象が起きても、絶望のどん底に落ちることはありません。絆を噛みしめると、誰かに拒絶されたり否定されたとしても、自分を見失うことはありません。

 幸せを感じやすい脳というのは、言い方を変えると不幸に対する耐性が高くなるということかもしれません。ちょっとやそっとじゃ絶望しない強い心。それは幸せを感じやすい脳を作ることで手に入れることができ、幸せを感じやすい脳はトレーニングによって獲得することができるということなのです。「どうせなら」幸せを感じやすい脳を作って、不幸耐性を強化し、幸せな人生を送ることができればいいなと思いますよね。

2017年11月21日火曜日

涙腺崩壊のAmazonプライムCM

(253) Amazonプライム新CM公開中 - YouTube:

 今回は8月6日から流れていたテレビCMの話題なので、今さらかよというツッコミが聞こえて来そうですが、AmazonプライムのCMの話題を(↓)。実は感動もののCMが多いAmazonプライム、赤ちゃんと先住犬であるゴールデン・レトリバーとの交流を描いたCMやポニーと調教師による物語のCMなど、これまでも涙腺崩壊という意見はよく聞かれました。


 そして、自分的にはタイミングを逃してしまっていた今回のCMなのですが、おばあちゃんと孫編とでも言いましょうか、おばあちゃんを想う孫が粋なプレゼントをAmazonプライムで買うというストーリーです。

 バイクに腰掛ける男性は、戸塚純貴氏という俳優さんです。自分としては、長男が幼かった頃一緒に見ていた仮面ライダーウィザードに、主人公の魔法使いに憧れる奈良瞬平役で出演されていた時の印象が強いのですが、あの頃のどこか頼りない印象の青年(失礼!役柄的なものですよね)が大人になったなあと変に感動したり。

 それはさておき、男性に「近くまで行くのなら、おばあちゃんのところに寄ってあげて。」というメールが届き、一路おばあちゃんのところへバイクを走らせます。突然の訪問なのでしょうが、笑顔で孫を迎えるおばあちゃん。男性は、きっと子供の頃にこの家に何度も遊びに来たのでしょう。思い出に浸る男性があたりを見回すと、今は亡きおじいちゃんの遺影、台所に1人分の茶碗しかないことで、おばあちゃんの現在の寂しさが見て取れます。ふと棚の上に目をやると、おばあちゃんの若かりし頃の写真が目に入ります。バイクの前で、若い頃のおじいちゃんと並んで、いかにも幸せそうな笑顔が溢れています。なんとも言えない感傷に居ても立っても居られなくなった男性は、スマホを取り出しおばあちゃんへのプレゼントを注文します。男性が注文したプレゼントとは? 実はそれはあくまでも本当のプレゼントのためのプロローグ。男性がおばあちゃんにしたかった本当のプレゼントとは? ハンカチを忘れずに動画をご覧になって、答えをご確認ください。

 実は自分にも、おばあちゃんがいます。このCMのおばあちゃんよりもずっと年上、脳梗塞を患ってから何年も寝たきりの状態が続いていて、目を開けて少し手を動かせるものの言葉をしゃべることもできません。おじいちゃんが既に亡くなっているのはこのCMと同じ状況ですが、おばあちゃん孝行をもっとしたかったなぁとなんとも言えない後悔が自分の胸を包みます。

 自分たち家族が住む街からおばあちゃんのホームまで電車を乗り継いで5時間という距離もあって、お盆と正月・ゴールデンウィークなどにしか顔を見せにも行けていない現状です。それでもこの前、たまたま出張で近くに行った時に顔を出すと、普段はすぐに眠ってしまうところをじっと目を見開いて自分の顔を見てくれていました。言葉は一方的に自分が喋りかけるだけですが、じっと見開いた目から、自分のことを分かってくれていているんだなあと感じることができました。

 自分が子供の頃はまだ共働きが珍しかったのですが、両親は共にフルタイムの仕事をしていました。おばあちゃんは月曜の早朝に電車に1時間揺られて自分の家にやって来て、金曜の夜に家に帰っていくという生活をしてくれていました。金曜の夜は自分が泣くので隠れて帰ったというエピソードは、大人になってから何度も聞かされました。自分にとっての育ての親は、おばあちゃんだったんです。保育園に送り迎えしてくれたのもおばあちゃんですし、授業参観に来てくれたのもおばあちゃんでした。友達のお母さんたちに混じって、授業参観に来てくれるおばあちゃん。自分のところだけお母さんじゃなくおばあちゃんなのが、当時はなんだか恥ずかしい気がしていましたが、今思うと、幼い頃の自分にいつも寄り添ってくれていたのは父や母以上におばあちゃんだったことに、いくら感謝しても感謝しきれません。

 自分たちも夫婦共働きをしていて(今は珍しくもなくなりましたが)、二人の子供たちはオクさんのお義母さんにかなりお世話になっています。毎日のように保育園や児童クラブに向けに行っては夕食を食べさせてくれ、オクさんが仕事から帰ってから迎えに行くまで、ずっとお義母さんの家で過ごさせて頂いています。時は巡るというか、自分がおばあちゃんから注いでもらった愛情を、今は自分の子供たちが受けているんだなあと思うと、なんだかそれも切なかったり。実の母の方も、妹の子供の世話を全面的にサポートしているので、おばあちゃんが孫の面倒を見てくれるループは、次の世代にバトンタッチされています。

 おばあちゃんと孫という関係性、母と子というのともちょっと違う、ある意味大きな無償の愛で丸ごと包んでくれる愛かもしれません。そんな自分の過去と現在にもリンクして、思わず涙がこぼれる、そんな切ないCMです。

2017年11月19日日曜日

全自動農業という希望

農夫のいない農場 | VICE JAPAN:

 今回はClaire Downs氏の記事を元に、イマドキの農業はこんな風になっているんだという話題を。元記事で紹介されているのが、土地を耕すところから、農作物が育てて収穫するまでを管理する、世界初の完全オートメーション農業「ハンズフリー・ヘクタール(Hands Free Hectare)」です。完全オートメーションと言うだけあって、トラクターやコンバインといった農業機械だけでなく、カメラやレーザー・GPSにドローンといったハイテクが駆使されています。

 ハンズフリー・ヘクタールは、2016年10月、政府の資金提供20万ポンド(約3000万円)を受けたハーパー・アダムス大学のチームによって行われているプロジェクトで、英国シュロップシャーの農園では今年の秋見事に収穫の時を迎えたのだそうです。収穫されたのは大麦4.9トン。プロジェクトリーダーのKit Franklin氏によれば「ヘクタール単価が史上最高額の大麦畑」だそうですが、もちろん最終的には規模の原理による低コスト化を目指します。



 実は今、全自動農業を進める企業や団体は多いのだそうで、今年9月には、トラクター・メーカーであるJohn Deereが自動雑草除去マシン実用化のために、AI企業のBlue River Technologyを買収したり、京都のロボット・レタス工場 スプレッドは、日量3万株のレタスを生産しています。スタートアップ企業のDescartes Labsは、衛星画像の分析データを利用して、作物生産高の予測を行なっています。

 日本もそうですが、先進諸国では農業や漁業・林業などの一次産業は、高齢化による人手不足が深刻です。そんなピンチの救世主は、やはりロボットやIoT・AIなどの先端テクノロジーでしょう。Franklin氏は「(テクノロジーは)人の仕事を奪うのではない。人の仕事を変えるのだ」と述べておられます。農業分野における人間の仕事は、これまでの自ら手を動かし体を動かすことから、トラクターマネジャーとか農業アナリストとしてロボットを管理したり作物の成長を管理する、そんな仕事に変わってくのかもしれません。

 やはり、一次産業・二次産業というのは、基本的に身体を動かす仕事です。いわゆる肉体的な「労働(Labour)」については、テクノロジーによる置き換えが歓迎される傾向にあります。人間にはそのLabourを管理する仕事(Work)が残されており、肉体的に負担の大きいLabourはテクノロジーが担い、代わって人間は負担の少ないWorkへ移行するというのは、歴史的に人間がテクノロジーを開発してきた大きな動機です。一方で人間はまだ、Workの次に移行すべき仕事をはっきり見出せていませんので、テクノロジーがWorkをも取って代わろうとすると、人間側から大きな反発が生まれてしまうのです。

 人々の歓迎を受けて発展することができるテクノロジー、それが農業はじめとする一次産業や工場作業のような二次産業のアプリケーションで、そこでは人間は安心してテクノロジーの発展を受け入れられます。工場作業の中にはほとんど完全オートメーションという分野もありますが、農業・漁業・林業も完全オートメーションという時代が、すぐそこまで来ているのかもしれませんね。

2017年11月17日金曜日

愛犬のために1ついかが? 吠えて開けるドア

Pi-Rex – Bark Activated Door Opening System with Raspberry Pi:

 皆さんは、Rasberry Pi(ラズベリーパイ)という小型コンピュータをご存知でしょうか。こんな感じ(↓)のマザーボードむき出しのコンピュータで、4千円台から手に入ります(ケースをつけても8千円台くらい)ので、個人でもIoT(Internet of Things)を楽しむことができます。

 自分もちょっと触ってみたことがあるのですが、Debian系LinuxのRaspbianというOSをインストールして、普通のパソコン用のキーボードやディスプレイをつないで使うことができました。I/O端子も備わっているので、単純なところだとコンピュータ制御で出力信号を出してLEDランプを付けたり、センサーからの入力信号を取り込んだりすることができるのです。制御プログラムもPythonで書けますので、個人で手を出すIoTデバイスにうってつけなばかりか、企業の試作品にも十分に使えるレベルなのです。

 世の中には、そんなRasberry Piを使って面白いIoTシステムを作っている人たちがいます。今回ご紹介するのは、Daveh氏が作られた、犬が吠える声でドアを開けることができるようにしたシステムです。猫を飼っている人の中には、愛猫が自由に部屋に出入りすることができるよう専用の小さいドアを取り付ける人もいますが、大抵はヒンジのバネで押して開けるだけの単純な仕組みです。ところが元記事で紹介されているドアシステムは、犬が吠える声で自動的に開くドアという面白いシステムです(↓)。


 仕組みとしては、吠える声を検出するためのオーディオセンサーをRasberry Piの入力に、モータードライバーを出力にします。プログラム的には簡単で、一定以上のノイズを検出した時にモーターを駆動してロックを外します。ドアは天井を介して重りで引っ張るようにしておき、ドアはロックが外れさえすればそのまま引っ張られて開くことになります。犬の鳴き声を検出してモーターでロックを外し、重りでドアが引っ張られて開くというのが一連の仕組みというわけです。


 制御用のプログラムも公開されています(↓)。これを見ると、単純にオーディオセンサーからのパルス信号をRasberry Piに取り込み、一定の時間内にしきい値以上のパルス入力があった場合にロック解除を駆動するという単純なコードになっています。

import sys
import wiringpi2
from time import sleep
gpio = wiringpi2.GPIO(wiringpi2.GPIO.WPI_MODE_GPIO)
enable_1 = 27
enable_2 = 17
enable_3 = 18

gpio.pinMode(enable_1,gpio.INPUT)
gpio.pinMode(enable_2,gpio.OUTPUT)
gpio.pinMode(enable_3,gpio.OUTPUT)
gpio.pullUpDnControl(enable_1,1)
gpio.pinMode(enable_2,1)
gpio.pinMode(enable_3,1)

gpio.digitalWrite(enable_2,gpio.HIGH)
gpio.digitalWrite(enable_3,gpio.LOW)
sleep (0.1)
gpio.digitalWrite(enable_2,gpio.HIGH)
gpio.digitalWrite(enable_3,gpio.HIGH)

samples = [0 for i in xrange(50)]

j=0
ons = 0;

while (1):
        sample = gpio.digitalRead(enable_1)
        samples[j] = sample
        ons = 0;
        for i in xrange(50):
                if (samples[i] >0):
                        ons = ons +1;
        j = j + 1
        if (j>49):
                j=0
                print ons
        if ons >25:
                print ons
                gpio.digitalWrite(enable_2,gpio.LOW)
                gpio.digitalWrite(enable_3,gpio.HIGH)
                sleep (0.1)
                gpio.digitalWrite(enable_2,gpio.HIGH)
                gpio.digitalWrite(enable_3,gpio.HIGH)
                sleep (2)
                gpio.digitalWrite(enable_2,gpio.HIGH)
                gpio.digitalWrite(enable_3,gpio.LOW)
                sleep (0.1)
                gpio.digitalWrite(enable_2,gpio.HIGH)
                gpio.digitalWrite(enable_3,gpio.HIGH)
                for i in xrange(50):
                        samples[i] = 0;
                sleep (0.01)
 
 ハイテクで万能に思えるこのドアシステムですが、唯一にして最大(!)の弱点は、犬がドアを開けるときは吠えるだけでいいのですが、一度開けたドアは誰かが閉めてあげないといけないことです。閉める方は犬が自分でドアを押せば良さそうに思えますが、ドアは開く方向に常に重りで引っ張られていますので、"開けるは易いが示すは難し" かもしれませんね。それって製品だったら破綻してるんじゃ...なんて野暮なことは言わないように(笑)。IoTの発展のために、個人レベルのDIY(Do It Yourself)が盛り上がることがとても重要なのですから!

2017年11月15日水曜日

天才は孤独だが、本当は友人が必要

IQが低い=友達が多い  | VICE JAPAN:

 今回はDiana Tourjée氏の記事を元に、天才とは孤独なものだと言うお話です。それは孤独を余儀なくされるといった種のものではなく、むしろ自ら孤独を好むというお話です。

 英国の進化心理学者Satoshi Kanazawa氏とNorman Li氏が2016年に発表した研究結果によれば、多くの人々の幸福は、人口密度の減少と反比例して増加し、極めて知能が高い人は、友人と一緒にいないときのほうがむしろ幸福だというのです。確かに、いわゆる頭のいい人というのは、「孤高の天才」とか「近寄りがたい雰囲気」といった言葉が似合うように、友人たちとつるんでいるよりも一人で思考を巡らせている姿が似合うように思います。お二方の研究によれば、「より高度な知能をもつ人間は、友人との社会的交流が頻繁になるほど、生活満足度が低くなる」そうなのです。もちろん、IQが高い人の中にも社交的で友人が多い人もいるでしょうし、IQが低い人の中にもコミュ障のような人もいるでしょう。しかし、大きな傾向として概ねIQが高い人は孤独を好むという傾向があるのです。

 では、天才が友人と一緒の時間をあまり求めないのは、どうしてでしょう。元記事の中でTourjée氏は、周囲に足を引っ張られることがあるからだと述べておられます。いわゆる天才と呼ばれるような人々は、全体の中のほんの一握りです。例えば、高知能の人ばかりが集まるMENSAに入会するのは世界の中でほんの2%しかいなく、天才が自分と同じように情報を処理できる友人を探すのは極めて困難なのです。つまり天才の友人は多くは凡人で、凡人と一緒に何かをして足を引っ張られるくらいなら、自分一人で作業する方がずっとマシだと思っているのです。

 しかし、米国コーネル大学で人間発達学の教鞭を執るDr. Robert Sternbergによれば、知能の高い人々こそ友人が必要なのです。天才たちの行動は、彼らが天才であるがゆえに他の人がついて来られない可能性があります。天才は凡人に説明するのが下手で、結果的に多くの人を巻き込んで何かを成し遂げるということができない場合が多いのです。つまり、アカデミックな分野における知能の高さは、社会的な成功のための要因のあくまでも1要素であって、他に必要とされる社会的・感情的・常識的な能力などと全く関係がないのです。

 皮肉なことですが、他人とのかかわりを極力避けたい天才こそ、成功するためには他人との交流が必要なのです。天才がその天才ぶりを社会的な成功として結実するのが難しいのは、彼らが凡人たちとつるむのが難しいからかもしれません。

2017年11月14日火曜日

ノマドワーカーにぴったりの「TRENE(トレネ)」

一人での外出をもっと快適に!荷物を見守る小さなパートナー「TRENE(トレネ)」 | クラウドファンディング - Makuake(マクアケ):

 今回はネットで見つけた「これ欲しい!」という商品のご紹介。その名も「TRENE(トレネ)」(↓)。


外出時にスマホを持っていく人は多いと思いますが、自分の場合はスマホとノートパソコンの両方を持って行きます。例えばカフェなんかでパソコンを開いて作業をしている時に、電話が掛かってきてしまってパソコンを置いたままお店の廊下へ。あるいは、新幹線でパソコンを開いて作業していた時にそのままトイレへ、なんていうちょっと大切な荷物から離れるそんな時。置きっ放しの荷物が盗まれないよう見守ってくれるのです。

 ありそうでなかったこの商品、キングジムの渡部純平氏によって開発されたもので、クラウドファンディングサイトMakuakeでプロジェクト開始当日に目標金額を達成してしまったのだそうです。

 TRENEは、加速度センサとブザーとLEDのシンプルな構成で、使い方もとても簡単。事前にTRENEを自分のスマホとBluetoothで連携させておき、ちょっと席を離れるという時にパソコンや鞄など大切なものの上に置いておくのです。持ち主がスマホを持って席を離れると、TRENEは警戒モードに移行、TRENEが置かれた荷物が何者かによって動かされると、加速度センサーが感知してアラーム音とLEDの光で周りの人に知らせてくれるのです。スマホを持った持ち主が席に戻ってくると、警戒モードは解除され、TRENEと荷物を動かしても警報音や光が出ることはありません。LEDで、通常時は緑、警戒モード時はオレンジ、そして警報時は赤と言うように現在のモードが分かりますので、席を離れる時はちらっと後方を見やってオレンジになっていることを確認すれば良いと言うわけですね。

 事前にスマホのアプリで、警戒モードに移行する距離(最大10m)やセンサーの感度(3段階)、アラーム音の大きさ(3段階)などを設定しておくことができます(↓)。TRENE本体は2時間の充電で20時間の連続駆動ができるので、丸一日分は十分持ちそうです。


 販売予定価格は6,800円(税抜)。Makuakeでは、正式な発売日は2018年2月下旬頃の予定だそうです。席をはずす時にちょっとオシャレに荷物を見守ってくれるTRENE。例えばノマドワーカーの人が、コワーキングスペースを利用する時とかカフェで仕事をする時なんかに重宝しそうですね。自分はノマドワーカーではありませんが、外出時にノートパソコンを開くことも結構あるので、かなーり惹かれてしまいます!

2017年11月12日日曜日

チームで成果を出すコツは「デキる人を活かし切る」こと

「ウチは仕事の出来る人ほど、残業する」と語った経営者がいた。 | Books&Apps:

 今回は、働き方改革が叫ばれている2017年にはちょっと風当たりが強いかもしれない、安達裕哉氏の記事を元に、組織としての生産性を上げる方法について考えてみようと思います。念のため言っておくと、安達氏の元記事は2014年に書かれたもので、電通の女性新入社員の過労死から社会問題にまで発展した「働き方改革」が叫ばれる前に書かれた記事です。

 元記事で言われているのは、残業時間と仕事ができるかどうかには何らかの関係性があります。ただその関係性をどう判断するかは全く正反対の2つの考え方があって、1つ目は、残業をたくさんする人は定時内に仕事を終えられない無能な人だとする考え方です。それと正反対な2つ目は、残業をたくさんする人はそれだけ仕事熱心な人だという考え方です。直感的には、どちらかと言うとブルーカラーや単純作業の場合に、前者の考え方が当てはまりやすいような気がします。作業ベースの場合なら、だらだらと仕事をする人はテキパキとこなす人より時間ばかりかかる。それに対して、ホワイトカラーや頭脳系の仕事あるいはアーティスト系は後者の例も多いかもしれません。自分が関わっているソフトウェア開発も、ノッている時に定時だから続きはまた明日とやってしまうと、勢いが失われたりして仕事のデキが悪くなる場合があります。

 しかし、安達氏が出会った経営者の方の考え方はこのどちらとも違って、生産性の高い人物にしか残業をやらせないと言う考え方だと言うのです。仕事がデキない人にはとっとと定時に帰ってもらって、仕事がデキる人には残業してもらう。残業は許可制で、残業できることは仕事ができる人だと認められていると言う意味で、社内におけるステータスだと。

 この経営者の言葉を読ませて頂いて、自分はある人から聞いた、チームで成果を出すためのマネジメントの話を思い出しました。そのある人というのは、実は自分の父親なのです。父は、今では自分で事業をやっていますが、若い時は外資系の銀行に勤めていました。まだ高校生か大学生くらいだった自分に父が語ってくれたのは、急いで片付ける必要がある重要な仕事が発生した時、その仕事を暇な人と忙しい人のどちらに振るべきかという話でした。もちろんわざわざこんな質問をしてくるんですから、暇な人ではなく忙しい人に振るべきだという答えなのですが、暇な人というのは基本的には仕事のデキない人で、暇にしているということは新たな仕事が振られても頭の切り替えにまず時間がかかる。それに対して忙しい人というのは、仕事がデキる人で、かつ現在忙しくしていると言うことはノッテいる状態。暇な人に仕事を振っても、エンジンがかかるのが遅いばかりかアウトプットのレベルも低い。それに対して忙しい人は、エンジン全開状態なので新たな仕事も右から左にやっつけることができ、かつ出来栄えも素晴らしい。「急ぎ」で「重要」という仕事をどちらに振るべきかは、自ずとわかるはずだと言うのです。

 当時の父の仕事と自分の仕事は分野も中身も違いますが、自分も仕事を人に振る時は、その仕事が重要なものであればデキる人に振るようにしています。以前に少し大きめの開発をやっていた時、自分のチームはプログラマー6人で進めていたのですが、重要な機能は自分が密かに「飛車・角」と呼んでいたエース2人に実装させ、他の人にはテストコードを書いてもらうというやり方を取りました。もちろんテストコードを書く4人には、自分がいかにテストを重視しているかを説明して納得させた上で、エースの2人にはプロジェクト成功のカギにあなた方2人を活かし切ることだと考えていると言いました。あえて言うなら、キモとなる仕事は全てエースに振り、その周囲にある雑用的な仕事を4人に振ることで、エースの力を限界まで引き出すというやり方。結果は、他のチームが軒並み不具合を連発するのに対して、自分のチームは良い成果を出すことができました。

 その時、頭脳系の仕事の場合にチームで成果を出すコツはやはり、「仕事の振り方に濃淡をつけること」だと痛感しました。単純作業ベースの仕事なら、平等に仕事を振らないとメンバーの不平不満の原因になりますが、クリエイティブ系の仕事は「デキる人を活かし切ること」。これだと思います。

2017年11月11日土曜日

「ネ申エクセル」と「Excel方眼紙」をめぐる議論

“ネ申エクセル”をめぐって徹底討論! 「Excel方眼紙公開討論会」開催:レポート|gihyo.jp … 技術評論社:

 皆さんは「ネ申エクセル」という言葉をご存知ですか。エクセルといえばMicrosoft社の表計算ソフトExcelのことだし、それが「神」というくらいだからExcelの素晴らしさを讃えたものかと思えば、さにあらず。よーくみると「神」ではなく「ネ申」。見た目はよく似ていますが、文字としてはカタカナの「ネ」と漢字の「申」をそれぞれ偏(へん)と旁(つくり)として使っていて、これを読むのが人であれば「神」と読めるもののコンピュータに読ませると「ネ」と「申」になってしまいます。このように、人が入力したデータを人が読んだり印刷したりする場合はまだしも、コンピュータで再利用できない(もしくは再利用が難しい)ケースが「ネ申エクセル」と揶揄されるのだそうです。

 「ネ申エクセル」をいとも簡単に作り出してしまうのが、「Excel方眼紙」と呼ばれる入力用シートです。最もひどい例がこんな(↓)やつで、何がひどいかと言うと、1セルに1文字しか入れない前提なので、もはやコンピュータどころか人がキーボードを使って入力するのさえ困難です。こういうタイプのExcel方眼紙を作る人は、これを入力する人のことさえ考えられないのかも知れません。

一方で、Excel方眼紙の何が悪いんだという立場の人もいます。元記事の討論イベントにも登壇されているプログラマの長岡慶一氏は、Excel方眼紙を不便と思ったことがないと述べられています。どちらかというとExcelシートからデータを抜き出して再利用しようというプログラマの方の言ですから、Excel方眼紙もいいものなのではないでしょうか。

 しかしよく考えると、Excel方眼紙の反対派の方と賛成派(というか容認派)の方が思い描いている「Excel 方眼紙」は実は微妙に異なっているのです。Excel方眼紙なんか百害あって一利なし言う方が思い描いているのは、方眼紙というよりも作文を書くときの原稿用紙をイメージしているような気がします。最もひどい例として先に出したこんな(↑)やつは、英語入力ならまだしもフレーズ単位で入力する日本語ワープロだと、書いたフレーズを1文字ずつに分解して1つ1つのセルに入れなければなりません。これはとても効率が悪く、下手したら手書きよりも時間がかかります。こんな1セル1文字のExcelから値を読み出してデータベースに入れるようなプログラムを作ろうとすれば、できないことはないけどとても大変ということになります。

 一方で長岡氏のようなExcel方眼紙容認派の方が思い描くのは、こんな感じ(↓)の方眼紙ではないでしょうか。どちらかというと複数のセルを1つに結合して大きめのセルを作り、そこに入力させようとするタイプです。実は、これならワープロ入力もそれほど大変じゃないですし(タブやエンターキーで次の入力用セルに移動できるようにする等の親切機能には多少の工夫が要りますが)、データの再利用性も高いです。1つのセルに1つのデータが理想とすれば、複数セルを結合したセル1つに1つのデータですから、それほど利便性が下がっていません。


 ちなみに、自分が最近出会ったExcel方眼紙は、1つのセルの中に「名前:   」となっていて、このコロンの後に名前を書いてくださいという意味なのですが、こういうのも使いづらいExcel方眼紙の一つです。入力するときはわざわざコロンの後までカーソルを移動する必要がありますし(間違って「名前:」を消してしまうこともある)、書く前にコロンの後の余計なスペースも消さないといけません。データを再利用するプログラム側からすれば、セルの値からコロンの右側だけを取り出さなければならないのです。

 つまり、「Excel方眼紙」そのものが悪いのではなく、入力する人やデータを再利用する人に対する思いやりが感じられるExcel方眼紙はむしろ歓迎してもいいくらいで、そういう思いやりを一切感じられない「ネ申エクセル」をも作り出せてしまうことがExcel方眼紙の罪なところということだと思うんです。VB(Visual Basic)の入力フォームだったら誰が作ってもだいたい一定のレベルのものができますが、Excelの場合は入力フォームの使いやすさ(使いづらさ)はピンキリになってしまいます。

 「ネ申エクセル」は帳票などの紙の仕事が中心という職場で生まれやすいと思うのですが、「ネ申エクセル」を作り出す人というのは、何もわざと入力者を困らせてやろうとか、この入力データを集計するプログラムを作る人を困らせてやろうと思っているわけではないと思うんです。「ネ申エクセル」の生みの親は、そもそもExcelのことをよく知らないという人です。知識がないために、紙ベースの申請書や原稿用紙をそのままExcelで作ろうとして、頭の中は印刷された結果がこれまでの紙と同じかどうかしか考えていないので、入力する人の手間や集計する人の苦労まで思いが届かないのです。

 あなたの周りで「ネ申エクセル」を次々と生み出す厄介な人がいる場合、その人を非難する前に、Excelのセミナーや講習会などで知識を獲得させてあげる必要があると思うんです。

2017年11月10日金曜日

「どうせ」と 「どうせなら」の小さくて大きな違い

『トム・ソーヤーの冒険』から学ぶ仕事の楽しみ方 「どうせなら」の発想で職業は生まれ変わる | JBpress(日本ビジネスプレス):

 今回は生産性至上主義のマイナス面を考えた前回と同じ篠原信氏の記事を元に、仕事というのは捉え方次第・取り組み方次第という話題。昔から言われていることではありますが、人から言われてする仕事は楽しくないが、自分から進んで取り組む仕事は楽しい、ということです。

 自分も経験がありますが、人からやれと言われて受け身でやる羽目になった仕事というのは、意欲がちっとも湧かず、できるだけ手を抜いてやろうとしがちです。結果的に、その仕事の成果は及第点ではあるものの、ギリギリ及第点といったレベル。嫌そうにやっている作業を見ても誰も助けてくれず、どんどん悪循環。それに対して、自分からやってみたいと取り組んでいる仕事は、どうやったらうまくやれるだろうかと工夫し、工夫することがさらに楽しさを生む好循環が生まれます。そうやって楽しく意欲的に取り組んだ仕事の成果は期待以上のものが生まれ、そうするとますますその仕事が楽しくなる。楽しそうに夢中に作業している姿を見た人も感化され、「なんだか楽しそうな仕事だな」とその仕事が輝き出します。

 目の前の仕事がイヤな仕事だったとしても、「『どうせ』やらなきゃならない」と後ろ向きに取り組むのではなく、「『どうせなら』楽しんでしまおう」と考え方を変えてみましょうということです。仕事を「楽しむ」ということはその仕事にのめり込むということでもありますから、自然とその仕事に「心がこもる」ようになります。心がこもった仕事は、周囲を感化して巻き込みます。面白そな仕事を自分もやってみたいと、周りに人が集まってくるのです。

 篠原氏は「トムソーヤの冒険」に出てくるお話で、この「どうせなら」の精神を表現されています。遊びに出かけようとするトムは、伯母さんに壁のペンキ塗りを言いつけられます。「え~っ。今遊びに行こうと思ったのに!」とペンキ塗りをイヤな仕事と思ったトムですが、ここで「どうせ」から「どうせなら」に考え方を変えて、楽しそうにペンキを塗り始めたのです。通りかかった友人は、最初は「なんだ、家の手伝いをさせられているのか」とからかいますが、トムのあまりにのめり込む様子にやがて「なあ、俺にもちょっとやらせてくれないか」と頼んできます。「え~っ、やだよ」ともったいつけるトムに対し、ついに友人は「このリンゴをあげるから!」。

 「どうせ」その仕事をやるなら、「どうせなら」の発想で楽しんでしまう。それはちょっとした心の持ちようだけに思えますが、あなたの周りに革命的な変化をもたらすかもしれません。「職業に貴賎なし」と言いますが、それでも陽の当たらない仕事や下に見られがちな仕事というのも現実にはあるでしょう。そういった仕事を「どうせ」やるんだったら、「どうせなら」のめり込んで色々な工夫を凝らし楽しんでしまおう。何を青臭いことをと思われるかもしれませんが、心の持ちよう一つで人生が変わるなら青臭さもいいじゃないかと思うのです。

2017年11月6日月曜日

生産性至上主義が負のスパイラルを生む

生産性至上主義が日本をここまで消耗させた さまざまな矛盾を抱えた人間のための「人間工学社会」を | JBpress(日本ビジネスプレス):

 今回は篠原信氏の記事を元に、意外に的を射ているかもと思える「人間社会の天の邪鬼ぶり」について考えてみたいと思います。その天の邪鬼ぶりというのは、現代の日本も陥っている「生産性至上主義」が、逆に失業者の増加や、売り上げ低下、長時間労働、さらには収入減という負のスパイラルを生んでいるという考え方のことで、社会の仕組みのことを実にわかりやすく説明してくれています。

 現代社会は、多くの産業で「労働生産性」を上げようと必死です。農家は1人が耕す耕地面積を大きくしようとしますし、漁師も少ない人数で多くの魚を獲ろうとします。一次産業だけでなく、二次産業・三次産業でも工場の生産性向上は、インダストリー4.0はじめ様々なテクノロジーの対象ですし、サービス業も少ない人数でお店を切り盛りできるためえの工夫がいっぱいです。それでも、欧米企業に比べてまだまだ日本企業は生産性が低く、それが電通の問題のような長時間労働を引き起こしている...なんて議論もまことしやかに行なわれています。

 ごく単純には、「労働生産性」というのは「1人が稼ぐお金」のことで、例えばコンピュータやAIなどのツールで「1人こなす仕事の量」を増やせば、必然的に「1人が稼ぐお金」も増えるものだと考えられてきました。しかし、本当にそうでしょうか。ソロバンと鉛筆で仕事をしていた頃に比べ、コンピュータやIT技術を使いこなす現代の企業では1人がこなす仕事量は何倍にも増えています。しかし、稼ぐお金は本当に増えたでしょうか。もちろん、昭和30年代の初任給が1万円そこそこだったのに比べて、現代は20万円以上の初任給をもらえる企業もたくさんありますが、それは物価が上がっているから給料が上がっているだけで、相対的な裕福さは減退こそしないまでも、何倍もに増えた仕事量に見合うだけの裕福さを手に入れていないような気がします。

 この矛盾について、篠原氏は「欲望が飽和する」ことがその本質だと指摘されています。一次産業の例を考えるとわかりやすく、例えば日本で1年間に食べる食糧の量は限りがあります。限界以上に農産物を作ったとしても、食料が余ってしまい在庫が積み上がり、価格の下落を招きます。すると、せっかくトラクターを導入して機械化したり農薬や肥料で生産性を上げたとしても、農業全体の売り上げも減ってしまうのです。作れば作るだけ売れるわけではなく売れる量は一定なわけですから、生産性が上がってしまうと、農業という産業全体の生き残りを考えれば、農家の数を減らすしかありません。100人でちょうどいい量の米を生産していたのが、生産性が10倍になってしまうと、10人程度が農業に残って残り90人は別の産業へ移ってもらわないと、100人が共倒れ、その産業全体が成り立たなくなるのです。極端に言えば、生産性至上主義の社会はこれと同じことを全ての産業でやっているのと同じです。あぶれた90人は他の成長産業に移ればいいと思うかもしれませんが、なかなかそうは問屋が卸しません(農業一本でやってきたおじさんが、成長著しいデータサイエンティストに転身、なんて相当ハードルたかそうですよね)。成長産業もやはり1人当たりの売り上げを伸ばそうと追求しますので、またそこでもあぶれる労働力が出て、結果的には大量の失業者が生まれてしまうわけです。

 つまり、みんながみんな生産性を上げようと躍起になる社会は、
(1)1人当たりの労働時間と労働量が増えたが稼ぎは増えない。
(2)どの産業にも吸収されない失業者が増える。
(3)失業者や低賃金労働者が安い商品に飛び付く。
(4)売り上げの中心が低価格帯の商品となり、安売り競争が加速する。
(5)どの企業も安く商品を提供するようになり、デフレ経済になる。
という負のスパイラルに陥ってしまいます。これが篠原氏の言われる、「生産性至上主義」が負のスパイラルを生んでいるというロジックです。

 しかし、現実的に世界は「生産性至上主義」にひた走っています。この負のスパイラルはスピードを増しこそすれ、もはや引き返せないように思えます。ところが、我々は「生産性至上主義」の負のスパイラルを適度にバランスよく緩和できる方法を経験している、というのが篠原氏のご指摘です。それは「資本主義と、雇用を維持しようという社会主義的な行動のハイブリッド」だと言うのです。終戦直後のことですが、日本のすぐ近くには中国・北朝鮮・ソ連といった強力な共産主義国がひしめき、仕事に就けない帰還兵を失業者のままにしておくと、日本全体が共産主義化するのではないかという恐怖から、社会全体が雇用の安定に動いた時代がありました。無理矢理にでも仕事を作り出して、人々を安定した仕事に就かせたのです。

 人はお金持ちでなくても収入が安定すると、人は「プチ贅沢」をするようになります。つまりは失業者が少なくみんながプチ贅沢するようになると、需要が喚起されたり従来より高級な商品が売れるようになり、企業は売り上げ増加、個人は収入増につながっていく。つまり、上記の(1)〜(5)の反対の「正のスパイラル」に入ることになるのです。

 端的に言えば、「生産性至上主義」は、失業者が増え、売り上げが伸びず、労働時間が長くなるばかりで収入は減っていくデフレスパイラルに陥りやすい。逆に、「雇用安定至上主義」(このことを篠原氏は“資本主義と社会主義のハイブリッド”(社会民主主義)と定義されています)は、生活が安定し、消費が増え、仕事が増え、収入が増えるというインフレスパイラルになる。

 「生産性至上主義=悪」「雇用安定至上主義=善」のように書いてしまいましたが、もちろん雇用安定至上主義も行きすぎると悪になってしまいます。例えば、雇用を維持するプレッシャーが強い社会は、サボってもクビになりませんから、労働者が働かなくなって経済が停滞してしまう可能性があります。実際に、労働者が「働かずにカネをせしめる」ことによる経済的な停滞は、共産主義のソ連や、労働運動が強くなりすぎたイギリスの一時期に実際に起きました。

 つまりは、「生産性至上主義」と「雇用安定至上主義」のバランスが大切で、どちらかが強くなりすぎるとよくないということなのです。現代の日本社会は前者が少し強くなりすぎているので、もう少し雇用安定への舵を切る必要があるというわけです。「資本主義だが、雇用を維持しようとする」という微妙なさじ加減が、経済を活性化しながらも人々に幸福をもたらすことができる唯一の方法かもしれません。